テキトーさとかガツガツとかケンカモードの人々をみていて日常でふと思ったこと

というのはいろいろについてなんだが。

例えばライブドアの今回の件とか規模からいったらスゴく小さいわけでカネボウなんて2000億粉飾だが騒ぎのモードが違うよな。

なんつーかライブドアの場合はキャラがたっちゃってただけにコンテンツとして扱いやすいということなんだろうけど。

それにしたってテキトーだ。

この二日はあんまり面白いので朝10時頃から午後3時まで間にお昼休みを入れて、ずっと株のボードを眺めていた。

不思議だけれど数字の向こうに人がみえる感じなのである。

対戦ゲームをやってるみたいな印象だ。

ピコピコ動いているのは0〜9までの数字の群。

しかし、その向こう側に人の気配がするわけだ。

いやホントに常識では考えられないような振る舞いをみせるものだがから数字をみているだけでドラマがあるというか、
ほとんどゲームをみているようだった。

正直、大笑いしそうになった。

ありえんだろその動きは〜。

というのがあちこちでみられた。

こうなるとマーケットと呼んでいいものかどうか。

異様なバーゲンと空回りのようでさえあった。

で二日ほどみていたら退屈になった。

なんともいえない感覚だがすごくシステム寄りのボーダーみたいなものがみえて、意識の中のプログラムを変えないとこりゃ、いかんわな、
と思った。

その夜。

「パッチギ!」を観た後にビックカメラに備品を買いにいったら、Mac売り場で50代のオジサンが店員に詰め寄っていた。

グレイの髪を後ろでしばってクロい革ジャンのオジサンはけっこうカッコいいのだが店員に詰め寄っている様は正直辟易した。
隣に連れの女性がいたが彼女はどうしようなくてiBookをちろちろ操作している。

推測するに彼が質問したらそれについてナメた返答をしたとおぼしき店員がボコボコにされている、というような様子であった。

しかしなあ…。

あの絵をみせられたら100年の恋も醒めるんじゃなかろうか。パワーあるんなら、それを怒りとかに使っても無駄というか。
もったいないよな。

まあ、その事件の前に「パッチギ!」を観てたのも僕がそう感じたことへ影響してるんだが。

「パッチギ!」の中で在日韓国人の爺さまが吼えるシーンがある。それを観てたらステレオタイプな嫌日な表現に辟易した。

何かというとコレだ。戦争責任と強制的に連れてこられて、スゲー辛かったという話。

なんつったらいいかな、ヨン様とかいってうちのオフクロでさえ韓国アソビにいったりしてるわけで、
そっちの方が世の中的にプラスだと思う。

辛かった人には申し訳ないがオレらに言われてもどうしようもない。

2万年後とかにも同じことをいってるわけないし、なんつーか、もっとこう、怒らずに、ねたまずに、文句いわずに、
余った力はクリエイティブに、生きれないものかな、と思うのである。

その帰り道、銀座をチャリで帰っていたら、タクシーにビービーとクラクションを鳴らされた。いやさ、
タクシーの人たちとかも大変だとは思うけど(あの車乗ってる人)、ビービーならされるとかなりビビるし、「なんだコイツ?!
ケンカうってんのか?」と一瞬、殺気立つんだから止めて欲しいものだ。

車のると人格変わるヤツっているがストレスあってもさ、なんかこう、優しくしたらそっから人生好転すると思うんだよね、オレは。

なのでムカついてる人とか、文句いってる人は、まあ、温泉でもいってフロにつかって、ウマイメシでも食べて、
人に優しくする楽しさを行動でトライしてみる、みたいなのをオススメする。

人はコミュニケーションによってムカつきもするけれど、
うまく効けばそれ以外の方法では得られない気持ちよさとか清々しさとか楽しさに包まれるよ。

あとこれも余談で書いておこう。

先日、モンジャにいったんだが隣の席の4人組の中におっさんがひとりいて。会社の部長様らしく、やたらと声がでかい。
楽しいといえば楽しいが隣の席だと頭痛がしそうであった。

またしても、一瞬、殺気だったのだが。ヤメタ。観察してみることにした。彼は一生懸命、溶け込もうしてるっぽかった。
彼以外は30歳くらいの男女だったので必死だったのかも。

あるいはそっち側の人間だったら楽しかったのかなあ、とも思うがオレの友人・知人にはああいった手合いはいないな。
少なくともパブリックな環境でバカ声を出す人は。

とはいえなんかなーと思うのも事実。

ああいった手合いが多いのである。

自分、自分らで世界が閉じてる人。

これって彼らのパーソナリティの問題ではなくて、かなりの部分システム依存なんじゃないかと思っている。

話が飛んでコスト論になるんだけれど、快適さを最大化しようとしたら自己の快適さの最大化ではなく、
関係性をもつ要素を含んだ場の快適さを上げていくようにしないと結局は快適さのコストが上がってしまう。

簡単な話で貧富の差を拡大していくと、結果として一部の人は快適な生活ができているようにみえて、
それを成立させる為の社会的なコストは増大するから全体では快適さは低下のスパイラルにはいってしまう、みたいなことである。

貧富という言葉が出たついでに書くと。

「パッチギ!」なんかも爺さまが吼えていたあのシーン。よくよく考えてみれば貧困が根本的な理由だと思った。
社会的に云々という言葉に隠されて明確化されてないけれど、いちばん大きいのは「貧困状態」というファクターだと思った。

というわけで世界から貧困が消えたら、あのパターンの対立構造というか怨恨システムは変わるのだろうな。

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