眩暈

天候の変化に反応しているのか目覚めるとまたしても眩暈がする。

どうにも目が回って仕方がない。

かといって休むわけにもいかない。

「ヤルカヤラレルカ」

かつての友人達と訪れた伝説の東京ドームを思い出す。

家を離れカフェで仕事をしてみた。

NTTが入っているビルである。

新入社員とおぼしき男女が談笑している。

そこに颯爽と先輩社員が現れた。

彼は少し離れて腰を下ろす。

新米社員達は

「こちらへどうぞ」

というが彼は

「ここでいいよ」

と笑顔で応える。微笑ましい風景、と思ったのはつかの間であった。

先輩社員は新米達との接点を見いだすべく、自分のワールド、つまり会社の話をしきりにしている。先輩風というのはこういうものか。

オレには経験がない。

新米達に溶け込もうとするあまり、声に力が入る。

その必死さ加減が逆に痛々しい。

いや、十分に「イタイ」。

彼の話はどうでもいいことが9割8分である。

花粉症が発症したか、とか、会社に入ると視力が落ちるんだ、とか。どうでもいい自慢であった。

イタイ。

あまりにも。

イタイ。

どーでもいい話にも飽きたのでインナーフォンを装着し、iPodのスイッチを入れた。

世界が一変した。

バカトークが消えていった。

しかし坂本さんの音楽では音量が不十分であったようで彼らのけたたましい笑い声に頭がガンガンしてきた。

この間のモンジャ屋でもそうだったが、一般的な会社員な人々は公共性を失しているケースが多い。

1人2人だとノーマルだが、5人も集まると居酒屋と化す。

極めて迷惑だ。

話は飛ぶ。

「創る」ということに携わる時、そのプロセスにおいて人は精神的である。

創るという行為との接点が薄れると人から精神性が失われていく、ように僕は思う。

公共性の希薄化もそもそもはここに原因があるのではないだろうか。

創ることは独善的ではなく、関係的な行為だ。

この間、茂木さんが「本当の独創性は精神病院の中にしかないって養老さんもいってましたよ」と言っていたけれどそういうことだろう。

「創る」とはコミュニケーションの一形態だと思う。

公共性の希薄化についてもうひとつ思うのは変な意味での匿名性が効いてしまっているからだ。

自分が何者かがパブリックになっている場合は

「自分さえよければOK」

という思考はしづらい。

居酒屋や店での事例を考えてみよう。

隣の集団がギャーギャーと騒々しい。多くの人がそれを迷惑に感じている。しかし、騒いでいる当人は楽しいだけである。
その場を構成する人々の許容度がある程度の幅をもっていればそれだけだ。が、どこかで閾値を超えて、我慢の限界に達すると、ズレ、
ディスコミュニケーションは反復拡大していく。

不快や問題の原因となっている人物のあらゆる側面に対して嫌悪感や憎悪感が発生し始める。
ところが当事者が知り合いかであったりするとそうした感情がわき上がることはない。

不思議だが人の意識は現象そのものよりも、コンテクストに大きな影響を受ける。

というわけで、自分が何者であるかということが他者に知られている状態の人々は自分の行動に気を使うようになる。
関係性を無視した行動によって生じるであろうリスクの方が大きいからである。
そうしたバイアスがかかるようになると人の行動はもうちょっと滑らかになるのではないか、とも思う。

自覚的にそれが行える人はかなり稀だと思うが。

また、システムとして組み込んだ場合、創造性の抑圧へと向かってしまう可能性もある。このバランスを保った社会システムがつくれると、
良い意味での「競争」「対話」「議論」によるドライブの効いた創造性を抑圧されない公共性のある世界もありえるんじゃないか、と思う。

雑談でした。

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コメント

  1. キッピーニョ より:

    その先輩、かなり痛いね。
    僕もそうならないように心がけたいです。
    もし、僕が気づいていないようなら、是非注意して下さいね。