脳コンピュータインターフェイスの衝撃

DVRに録画されていた「立花隆が探るサイボーグの衝撃」を観た。

衝撃は衝撃を越えていた。

番組中、衝撃を受けたのはサイボーグ化の部分ではなく

ATR所長の川人氏が研究する「脳コンピュータインターフェイス」
とそのインターフェイスの拡張による

「脳による直接コミュニケーションの可能性」

についての下りであった。正直、鳥肌がたった。

書きながらまだ戦慄がやまない。

何故か、今日の仕事でのチームでの議論の後半が脳裏をよぎった。

あの時、自分の意識やイメージはいまの社会用に変更されており、思考はあきらかに変更された状態で進行していた。

「ブレインマシーンインターフェイス」の話をTVで観ながら、
さっきの議論が脳裏をよぎってしかたなかった。最初、それがどんな意味を持っているのかよくわからなかったが徐々にハッキリとしてきた。

脱線する前に話を少しもどそう。

ブレインマシーンインターフェイスは「攻殻機動隊」や「ニューロマンサー」にでてくるジャックイン、つまり、
脳とコンピュータが電極のようなインターフェイスによって直接接続され、ネットワークへアクセスする為のインターフェイスのことである。

実際にこのインターフェイスを実装した人がすでに米国には存在し、彼は思考によってマウスを動かしたり、
チャンネルを変えたりというようなことができる。これらのインターフェイスは電極によって脳とコンピュータを直結させるタイプのものである。

一方、ATRの川人氏が研究するブレインマシーンインターフェイスは非接触型である。脳の活動をヘルメット状のモニターで拾いあげ、
インターフェイスとして用いる。電極を差し込むタイプのインターフェイスに比べるとフンワリとした印象を受けた。

立花氏との対談ではこのインターフェイスの解説の後「コミュニケーション」についての議論がおこなわれた。

前述した通り、僕が強く揺さぶられたのは

「言語によるコミュニケーションは運動器官と感覚器官を通じて行われる。これをバイパスすることは原理的には可能だ」

という部分である。良いか悪いかは別としてコミュニケーションのあり方が根本から覆される、可能性を感じた。

繰り返しになるがこの世界の問題、特に人の世界の問題の9割は人と人のコミュニケーションにその根本的な原因がある、
というのが僕の考えである。

人の世界の問題のほとんどはコミュニケーションの問題に集約される。
運動器官を介さないコミュニケーション手段が問題の全てを解決するわけではないが、
人が感じていることをわずかでもいいからその輪郭でもいいので感じることができたなら、
言葉を介したコミュニケーションによって更にメタな部分に触れることができるようになるのではないか、と思うのである。

共感やドライブ感のようなものがチェーンする可能性、そういったものを感じるのである。(当然、逆もあるのだが)

このようなことを考えている時だった。理由はわからないのだが冒頭に述べたように昨日の午後の会議のあるシーンが何度も脳裏をよぎり、
繰り返し再生される。当惑していたが徐々にグチャグチャにからまった白い糸がパターンをえがきはじめた。

そして…。

まだ何も解決していないのだが、かなりスッキリと晴れてきたのである。

ところで米国はこの種の研究に1兆円規模の予算をつぎ込んでいるそうである。

ならば全世界で100兆円分くらいを費やしてみたらどうか、というのが僕の提案である。

仮に「言語」とか「火」とかそういうレベルの存在の創出がなされるのであれば100兆でもタダみたいなものだ。

人は感情で動くけれど、人の世界の問題は「なーんもないよ」(by長州力)なんではないかと思った。

(立花氏と対談していたATRの川人氏だが非常に印象的な目つきであった。こんな日本人がいたのか、そう思った。この人、
ノーベル賞をとるんではないだろうか)

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ここから先はメモなので僕だけが読めばよい。

僕以外の人は意味不明なはずである。

なので以下は読む必要はない。

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僕はアシモフのロボットシリーズとファウンデーションシリーズに得体のしれない魅力を感じていて。

何故それが面白いのかよくわからないのだがこの二つのシリーズの要になっているのは「コミュニケーション」の覚醒なのである。
覚醒という言葉はニューサイエンスっぽくて好きじゃないけれど能力が開く時のあの感じ、成長のダイナミズムみたいなもの、
のあの感じが持つ質感を人は無視できなくて、あれらの小説の最後の最後で必ずでてくる「コミュニケーション」
が開く質感は人の本性へと働きかけているんじゃないかと思う。

なんなんだろうな、ロボットとのコミュニケーションは非存在あるいは情報体との対話に近いものがあって、
底意が存在しない意識との交差や交流を人は渇望してるんじゃなかろうか。

コミュニケーションによって人のモードは変化、変更される。

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この世界には「ありたい」「いきたい」カタチが幾つかある。

おそらくそれらは情報の本性のようなもので映画「天空の城ラピュタ」
の中心部で飛行石がガッコンガッコン結合していくように集合と移動を繰り返していて、
ズームとズームアウトなど視座のレイヤー毎に異なる秩序パターンを動的にパラレルに描いている。

情報はそれ自体がある種の値を持っていて、これは常にパターンもしくはカタチへと向かう性質がある。
これにブレーキをかけるのは人間の世界の摂理であり、情報の世界の摂理は違うカタチを志向している。
ところがセンシングの問題なのか人の世界の摂理と情報の世界の摂理はなかなか協調できない。
これが具体的に事象として定位されたのが昨日の午後の会議での議論の後半で扱っていたテーマであった。

ここからかなり話は飛ぶがコミュニケーションの問題はおそらくマネーシステムと無関係ではいられない。
思うにマネーシステムとはある種の情報同士のコミュニケーションである。ビットが外に飛び出し、物質と情報の中間存在として人の世界の仲介・
メディアとして機能しているのがマネーシステムであるように思う。(良し悪しという指標をここで持ち込まないように注意が必要)

情報が行きたがっているなら、それでいいんじゃない、とそう思ったのである。

考えてみれば簡単な話である。

およそなんでもアリなのだ。

行きたいところに行かせてあげる。

とまあ、そんなことか。

要はですね。

「コンテンツ間の動的なコミュニケーション」

ということなのだ。コンテンツがスマートになりコミュニケーションを行う。

以上、メモ。

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