久しぶりにGoogle本社の写真

GooglePlex(グーグルプレックス)の写真@TIME Magazine

Googleでは会社のことをPLEXと呼ぶとのことである。

ラテン語からの派生語でPLEXは「折れ・絡み」という意味である。

TIME MagazineのPhotoEssayはその名の通り、写真をつかったエッセイである。

英文のコピーも「なるほどうまいこというなあ」という感じのものが多く、いつも楽しみにしている。

Google社の写真をみていたら散髪している写真や社内の「24時間オープン」と書かれたPCショップのような写真があったり、食堂はおいしそうだし(ナント無料だ写真はコレダ「Google Food Blog」)、会社なのか街なのかわからなくなる。

大学時代に組織論と経営の授業があってそこでやたらめったらレポートを書かされた。当時は先端といわれていたゼロックスの人事考課をケースに組織の将来像について書かされた。先生は花田教授だ。

さっきGoogle社の写真をみていたらその時に書いたレポートの内容を思い出した。

組織や会社というのは理想的なことをいえばそこが生活の場みたいになっていて、仕事にいくという感覚ではなく、そこにいることが心地よく、楽しく、ドライブ感があり、充実していて、ついでに世の中にも価値提供できてしまっている、というのが理想ではなかろうか。いや21世紀はそういう企業がバーンと伸びてきて、アホくさいリクルーターシステムとかリクルート社が送ってくるバカみたいに分厚い就職案内冊子とは無縁の世界なっていて、会社と家とか勤務時間という分類も無意味になってるような「場」にパワーが集中するんじゃないの、みたいなありきたりなレポートなんだがGoogleって結構それに近いよなあ、と思った次第である。

まあ、僕の場合は就職したこともないし、出勤もないわけなのでこれもこれで理想的ではあるが自分ひとりでドライブ感をつくり出すのは結構難しい。(うまくコミュニケーション要素を使わないとドライブ感は出来づらい)

あとは10年位ひとりでやってて思うのは「場」の重要性である。

さっきの話と矛盾しているように聞こえるかもしれないが「場」によるモードの切り替えはリズムをつくる上で重要だ。部屋が10部屋くらいあって、一部屋毎にテーマが違っていれば(例えばこの部屋はネットの部屋、この部屋は手書きの部屋、この部屋はゲームの部屋、この部屋は音楽の部屋、この部屋はスポーツの部屋、この部屋は法務の部屋、この部屋は財務の部屋、みたいなファンクション別の場設定)いいんだけれど同じ部屋で意識側の切り替えだけで全く別な作業に集中しようとするとかなり負荷がかかる。

「ドライブ感」という目的の為だけに会社とか場とかがあってもいいのに、と思うのである。

生活と仕事を分離しようとは全く思わない。社会や人の世界についていろいろな視点から考えること生活の中心なのだが、同時にそれは仕事ともリンクしており、これといった切れ目はない。締め切りみたいなものもあるにはあるがこんなのも仮決めしているだけで寿命が200歳くらいに伸びたらあんまり意味がなくなるように思う。

高橋留美子の漫画に「人魚の森」という作品がある。人魚の肉を食べた人は死ななくなってしまい、何百年も生き続け、時代を超えてさまよいながら同じく人魚の肉を食べてしまった人々を探していくという話なのだが仮にそういう状態になったら自分はそこで何をするかなあ、と考えてしまう。

とりあえず競争という感覚はなくなっていくんではないかと思う。時間やら生命のリミッターに拘束されていることが競争の根本で基本は「ガードしたい」という気持ちがそれをつくってる気がするんだな。競争なエンターテイメント性もあるかとは思うがより強いのは「守り」な姿勢なんじゃなかろうか。より「ラクしたい」というのとも近いかもしれないが物理的な制約故に自分を「守る」という本能があるように思うのだ。

(いかん、3時近くになってしまった。仕事再開します。)

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