「夜にそびえる不安の塔」井形 慶子

夜にそびえる不安の塔

飯野賢治氏のブログで紹介されていたのをみてはじめて存在を知った。
吉祥寺にいくまえに渋谷のブックファーストで入手した。

僕の興味は基本的に「コミュニケーション」の本質と感覚や能力のドライブの2点に集約される。
自分がかかわるあらゆる仕事はここにつながる。
情報に関連した物事に長く関わっているのもそのためであろう。

上記の本、エンターテイメントとして第一級のできである。
後半、文章がトランスというか酔っている状態になる部分が多くなる。それらの記述には違和感を覚えた。また全般的に自身が経営する会社の運営がうまくいかないことを巡る記述が多い。それらを読んでいるとこうすればいいだろうに、と思わずマネジメントを買って出たい気持ちになった。

日本には残念ながらマネジメントのプロが育たなかったという話を前に読んだ。確かにそうだな、と思いあたる節もある。基本的に人は強制では能力をドライブさせられない。「楽しい」という感覚とは少し違うが「向かう」時の無な感じの面白さだけが人の能力を最大限にドライブさせ、関係性にダイナミズムをもたらす。

これをつくることが組織、あるいは企業、会社の役目であろうと僕は考えている。
ようはあらゆる企業、組織、社会、その他もろもろはドラマであり、エンターテイメントであってOKだと思う。
エンターテイメントという言葉は誤解を生むかもしれないが、人は面白いとか悲しいとかなんでもいいのだが情報的に加速させる動きがないと頭も体もドライブしないのである。
より活性化を導く情報環境をつくりだすことに成功した場(組織、関係性、社会、場所、時間などなど)にダイナミズムは発生する。

脱線した。
著者の会社経営についての記述が大半でそれはそれでドラマとして面白いのだが壮大な話ではなく、若干、「それってどうでもよくない?」とつっこみを入れたくなったりもしたが、それでも2カ所ほど鳥肌が立った部分があった。あの感覚は恐ろしい。その箇所から自分が想起した事象、イメージ、は極めて情報的で宇宙的な広がりを有していた。

関係性といったらいいだろうか。

学生時代から使っている言葉だが「テキストの後ろのテキスト」という言い方を僕はよく使う。
この感覚に似たものは現実世界にもあって、時たま、小さな事象から壮大な世界がかいまみえる時がある。僕はそういう時間が好きでいつも探している、といってもいい。

「はじめての構造主義」の中でクラインの壺と原住民に伝わる思考が同じ概念を指したことについて記述されている箇所がある。あの感じにも似ている感覚である。

と、午前3時に書きながら、清田君のことを思い出した。
脈絡がないけれどメモみたいなものなのでまあいいか。

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