春の雨 人の世界と肩の小鳥と雨の午後

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思考について思うが酒はプラスをドライブさせもするがマイナスもドライブさせる。
酔った頭でメールなどの非同期型コミュニケーションは行わないように気をつけている。
「そちらの方が本音じゃないか?」ということもあるのだろうけれど本音が必ずしも最適化されたコミュニケーションだとは思わない。
より重要なのは直近な感情のみではなく高次の視点とのバランスだと考えている。
感情豊かでありながら視点を上にもっていくことが理想である。
直面している事象に振り回されることは時にエキサイティングだが複眼的(パラレル)に高次の視点で見ることで世界は変わってくる。

(仏教の教えだったろうか)「肩に小鳥がいれば大丈夫」という考え方があったと記憶している。
気になったので探してみた。驚いた。僕が初めて読んだ英語の本の一節であった。


“モリー先生との火曜日 – Tuesdays with Morrie” (ミッチ・アルボム, Mitch Albom)

こんな話であった。

“Do what the Buddhists do. Every day, have a little bird on your shoulder that asks, is today the day? Am I ready? Am I doing all I need to do? Am I being the person I want to be?”
(仏教にこういうやり方がある。毎日、肩に小鳥がいるのをイメージしてみる。そして朝起きたらその小鳥に訪ねてみる。今日がその日なのか?自分は準備できているだろうか?必要なこと全てができているだろうか?なりたい自分になっているだろうか?)

「肩に小鳥がいれば大丈夫」とはこういう話であった。この章の抜粋をここで読むことができる。

“most of us all walk around as if we’re sleepwalking. We really don’t experience the world fully, because we’re half-asleep, doing things we automatically think we have to do.”

この一節も印象的だった。我々の多くは夢遊病のように半分ねった状態で生きてしまっている。やらなければいけないと思っていることだけをオートマティックにしているだけである。追われるというよりも洗脳に近い感覚である。

“if you really listen to that bird on your shoulder, if you accept that you can die any time–then you might not be as ambitious as you are.”

自分も肩の小鳥がいない状態で生きてしまっていることが多い。焦りからだろう人への対応が邪険になったり、気遣いができなくなってしまう。
10年ぶりにMorrie先生と再会できた朝であった。
そこで思うことはこうである。
人にとって最も豊かな時間は「理解」することあるいはされること(できていないくてもいい)が実感としてフィードバックされるコミュニケーションの時間であろう。強くそう思う。そしてあらゆる人にはそれが実感できる相手と場所と時間が存在する。それを見つけるために生きているのだと僕は考える。

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