劇的3時間SHOW 「河瀬直美」@スパイラルホール キスシーンと映画と最適化の問題

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今週から青山のスパイラルホールで「劇的3時間SHOW」というイベントが行われている。
僕にとっては明日の「一瀬隆重」氏の講演がメインで河瀬直美さんの回は応募していなかったのだが直前で気が変わり二人の映画人の話を連続して聞いてみることにした。

河瀬直美さんについては「萌の朱雀」でカンヌのカメラドールを受賞し、岩井俊二監督の作品のプロデューサとして有名だった仙頭武則さんと結婚した(後、離婚)ということは知っていたが作品をみたことはなかった。ドキュメントの手法によってつくられた彼女の映像はメディアを選ぶ。自宅のモニターで観るのはきつく、強制的に映像を見続ける空間においてパフォーマンスが最大化されるタイプの作品だという認識があった。

それもあって作品を観ていなかった。
しかし、作品を知らずして話を聞くことは情報のパフォーマンスを低下させる。
それだけは避けなければならない。

イベントの3時間前に初めて河瀬直美さんの作品を視聴した。

観たのは「沙羅双樹」という作品である。

「沙羅双樹」については下記ウィキペディアのリンクをみてもらいたい。

沙羅双樹(ウィキペディア)

原題は「しゃらそうじゅ」となっていたがこの漢字「さらそうじゅ」と読んでしまう。
辞書をみると「しゃらそうじゅ」の漢字は「娑羅双樹」がつかわれていた。
共に同じ意味である。

お釈迦様が涅槃に入った時に四方に二本づつあった樹。
あるいは平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」の方が馴染み深いかもしれない。

河瀬直美さんについてはウィキペディアのリンクを観てもらうとして作品について感想を書いておく。

河瀬直美(ウィキペディア)

印象に残ったのは三点。

1.キスシーンが抜群に良かった
2.本人が出演していて焦った(裏話は先ほど本人の説明をきいた)
3.入り組んだ街を塗っていくカメラの映像が郷愁を誘った

まず、1から。

中盤あたりだと思うが唐突に少女がキスをする。
書いてしまえば「だからなに?」となってしまうのだがこの時の二人の間合い、特に少女の間合いが抜群にいいのである。
あの時間の流れには「造る」ことが困難な質感が漂っていた。
リアルではないが、かといって作り物でもない、映像表現によってしか表現することができない脳的な時間があのシーンにはあった。これまでみたあらゆるキスシーンよりもあのシーンが鮮烈だった。
正確にはキスの直前の「間」の時間と映像のリンクの仕方に脳が反応しているのだろう。
全く違う情報が脳内で沸き立つような感覚であった。

次、2について。

これも驚いた。
昨日の「血と暴力の国」同様、作品についての予備知識無しに見始めたのでまさか監督本人が重要な役で出演しているとは予想外であった。突然登場したその姿に「エッ?!」と声を出してしまった。

先ほどの河瀬さんの説明によればクランクインの前日に予定していた女優さんが急病で倒れてしまった為、代役で彼女が演じることにしたとのことである。いきなりやれるものなのかという疑問もあるが河瀬さんの作品の場合、ドキュメントの手法を多く使うためどちらかというと役になりきるというタイプの演技ではない方が向いているのかもしれない。

彼女自身、オーディションでみるのは役者のここ一番のキレ味ではなく「忍耐力」といっていた。
演じるということを超えた所で出てくる場に漂う何らかの本質を撮りたいということなのだと理解した。
そういえば似たようなことが浜野保樹の“小津安二郎” (岩波新書)にも書いてあった。
小津も役者に演じるなと指導したそうである。

河瀬さんの演技自体は、というよりもあれは演技だとも思わないのだが、違和感はなかった。

3.街と路地について。

これを映像として伝えたかったのかな、とも思った。
ラストシーンでカメラだけが路地を抜けていく場面がある。
この場面に登場する路地がいいのである。
あれはまぎれもない日本の路地の原風景である。

自分がいま住んでいる月島という街にも似たような風景が残っている。
僕自身は福島の出身なので映画にでてくるような「町場」な路地にある家に住んでいたわけではない。

家と家が路地によって隔てられ同時につながっている。
季節は夏。
時間は午後。

これを原風景というのだろうか。

自分の過去と対面しているような気持ちになった。
確かに自分もこんな風景にいた気がする。
この場所に帰りたい、そうも思った。
あの季節のあの路地は心にしみてくる。

以上が映画についての感想である。

以降イベントについて言及してみたい。

河瀬さん本人を直接目の当たりにするのは初めてであるが映像では既知であった。
だから脳内にあった「こんな感じの人だろうな」というイメージを確認するつもりだったのだが、映画の中の彼女より遙かに華麗であった。

話の内容は彼女の生い立ち、何故、映画を撮ろうと思ったのかについての解説がメインであった。
デモリールでメインの作品群を紹介した後、ひとつひとつの作品について話ていく。

作品名を忘れたが、彼女自身が刺青を入れ、裸で駆け出すシーンがあった。
コワイな、と思った。
同時に目の前でにこやかに話すこの女性は何かきっかけがあればその場で狂気的な集中をみせるのだろう、ということがリアルに感じられ、この人、アーティストだわ、そう思った。
突き詰めていく感じが女性のアーティスト特有の「怖さ」を漂わせていた。
視界が狭まるといったらいいのだろうか。
「痛さ」が伴う「怖さ」で僕はこの種の尖ったエネルギーに「怖さ」を感じる。
草間彌生のイメージがかぶった。

後半は某映画祭のディレクターであるフランス人の友人をゲストを交えての話であった。
こちらの方は映画関連のイベントでは常に議論になる「アート」と「エンターテイメント」(あるいは商業的であること)と「お金」
の話であった。

リュック・ベッソン氏も似たようなことを言っていた。
フランスと日本は映画において監督の「作家性」を重んじる傾向が強く、ベッソン氏の映画の最大の観客はフランス人だが二番目は日本人で、逆に宮崎駿の作品の最大の観客は日本人だが二番目はフランス人なのだそうである。

フランスの映画芸術に対する政策は50年代に自身がアーティストであったある政治家の提言によってその方針が決まり、アーティストの支援を国として打ち出し、継続している。政策によって、商業ベースにのらないことが予測される作品も制作機会を得ることができ、一般的な劇場(日本でいえばロードショー系)では公開が難しい作品も劇場側を支援することで多くのスクリーンで上映が可能になっているとのことであった。

河瀬さんの受賞作「殯の森」もフランス政府の助成なしには完成が難しかったそうである。

しかし、このあたりの議論はもう何年も続いている。
以前、是枝監督(「誰も知らない」)の話をきいたときもやっぱりこの話題になった。

「いい観客を育てないことにはいい作品もいい監督も育たない」というのが結論だと思うのだが残念ながら日本ではタイアップ系の作品が多く、アート系の作品、作家性を全面に出した作品は商業的に成功することは少ない。

この現状に対しては多く映画関係者が警鐘を鳴らしているがいっこうに改善される気配がない。
とはいえ「ゆれる」のような素晴らしい作品が出てきたりもする。

「誰も知らない」も「ゆれる」も十分に商業的に成功しているような印象を受けるが西川美和さんも是枝監督も映画の仕事だけでは映画を撮り続けることができない。

韓国もフランスと同じようにコンテンツに対して国が政策として支援を掲げている。
商業的な成績はわからないが作品だけみるとキム・ギドク(サマリア)、パク・チャヌク(オールドボーイ)などは凄まじくインパクトのある作品をつくりだしている。(パク・チャヌクの作品では「JSA」「オールドボーイ」が有名かもしれないが「親切なクムジャさん」が個人的には好きだ)

明日の一瀬氏、そしてシネカノンの李さんがこの問題に対する答えを提示してくれるのではないかと思う。
おそらく二人とも同じことを言うだろう。それは

「マーケットサイズを的確にとらえること」

である。

作家性の高い作品でも商業的に成功することは不可能ではない。
100万人が視聴し、数十億円の売り上げがあろうとも、経費がそれを上回れば作品は商業的には失敗である。
逆に総売り上げが数千万円程度でも経費がそれを下回れば商業的には成功である。

マーケットサイズをとらえ経費の配分をきっちりと押さえ、的確なマーケティングによって、的確なマーケットにアプローチする。
シンプルだがこれができれば作家性が高く商業的にも成功する作品が増える。
というのが僕の考えである。

もちろん、その作品を上映できるスクリーンの数を増やすことが不可欠で、その為には観客が劇場に足を運ばなければならない。

・スクリーン(劇場)
・観客
・作品

これらが互いに最適化され、伝わるべきところに伝わるべき情報が伝わり、観客が感動し、マーケットが拡大し、劇場が潤い、良作が増える、という好循環好に入ることで、商業性の強い作品と作家性の強い作品のバランスポイントがつくられ、ハッピーな環境が構築されるのである。

そのために自分は何ができるのか?
それをみつけることが自分の成功にもつながるのだろう。

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