ARの話とドラマの進化と脳の負荷

メモ:ARのエンターテイメントとしての利用方法。例えば、海岸にいって100mくらいの巨人(認識上)で格闘ゲームをプレイする。

「映像を観る」とは光源を眼というデバイスをつかって脳に取り込み、その情報をソフト的に処理することである。
我々はこの結果に対し「映像が綺麗」だとか「画面が大きい」とか「立体的」といってるわけだが「綺麗」も「大きい」も物理的に絶対な感覚としてそこに存在しているのではなく光の点をソフトで変換する際に生じている感覚(錯覚)である。
これらは脳がソフト的につくり出している「リアル」に過ぎない。

今後2〜3年でこの過程をバイパスできるようになるとは思わないがソフト処理の部分を外部機器あるいは外部情報によってドライブさせ感覚を加速させることは数年中に可能なのではないかと思っている。

これができると擬似的に共感覚をつくりだす、というような可能性もみえてくる。(感覚のレンジが大きく広がる可能性がある)
これが脳をどうドライブさせ得るか、非常に興味深い。

身体を鍛える方法はわかってきたが脳を鍛える方法は(例えば直感像資質を後天的に獲得するなど)ほとんどわかっていない。
次の10年はここに向かうんじゃないかな、と思っている。

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30年前の人が「24」や「ソプラノズ」などマルチスレッドと「点線の非存在」によって構成されたドラマを観たら楽しめるものだろうか?

ドラマ性以外の情報である「点線(説明的情報)」が消去されることで視聴者は未知部分の推測を強いられる。
そのため視聴時に脳への負荷は高まる。
しかし、この負荷は同時に脳への刺激でもあり、これが「面白さ」という質感をつくる一因として機能している。
おそらく現代のドラマでは。
(例えばドラマ「ER」では専門用語の説明はほとんどなされない)

ドラマのマルチスレッド化や点線の除去は脳にとっては負荷の増大であるが、そこには「脳を使う面白さ」がうまく織り込まれている。

しかし、最初からドラマがこのようにつくられていたわけではなく何十年もかけてドラマはその複雑性を高めてきた。

なので30年前の人がいきなり現代のドラマを観てもその複雑性を楽しめるものなのだろうか、にとても興味がある。

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