本音

来週からブログを分割するのでこのようにコンテンツの話と雑記が混在した状態でつれづれなるままに書くことも減るのだろう。

さて表題の件。
「本音」で書いたり、話したりすることはいいことだと言われる。
しかし、本音は必ずしも耳障りのいいことではなかったりする。
時には対立を招く場合もある。

物事について「好き」「嫌い」を言っている場合でも相手はそうはとらえてくれないこともある。
人格や人間性の否定と受け取られると対立を招く。

あるとき、あるアーティストともめたことがあった。
僕は彼の行為を「セコいなあ」と本音で思った。
しかし、その一言は思いもよらない「対立」を生じさせてしまった。
正直驚いた。
僕はそれほど大事だとは思わなかったが相手にとってはそうではなかったとあとで知った。

ところでこの時、僕は何も相手の人間性や人格を否定したわけではない。
そう思ったからそう言ったまでなのだがそれは予想に反し、恐ろしくディープに相手に刺さってしまった。

こういう時に僕は情報の魔力を感じる。
全く同じ情報がこうもことなる効果を発揮しうるのは何故なのだろう?

もうちょっというと人によってどうしてどうでもいいとしか思えないことに異様な反応をみせるのだろう。
今日も数日ぶりに電車に乗ると大門で乗ってきた20代のサラリーマンが会社の営業先の対応についてヒートアップして話をしていた。どうも彼にとっては相手方の対応が気に入らなくてしかたがないようだ。彼は何故にそこまでヒートアップしていたのだろう。

僕の解釈こうだ。
相手先が彼の気分を害した。しかし、彼は立場上、その「本音」を相手に話すことはできない。けれど、言葉を飲み込むことはある意味自分を裏切ることである。だから、彼は憤り、自分を肯定しようとヒートアップし、言説を重ねる。

じゃあ「本音」でやってみたら、と思うがおそらくそれも正解ではない。
どうしたら人と人はコミュニケートできるようになるのだろう。

昨夜、GTDという考え方の創始者のデビット・アレンさんという人の話をきいた。彼は僕のすぐ二人はさんだ隣にいた。僕の隣にはオジサン(必死にマインドマップを描いてた)がいた。彼はどうもアレンさんのファンらしかった。それならば話しかければいいのに彼はずっと独り言をいっている。そして時折、英語をつぶやく。

GTDというのは簡単にいうと頭を整理して気持ちよく仕事をするフレームワークみたいなものなのだがそれができてもこのオジサンのように隣にいる創設者には話しかけることができなかったりする。

そういうのをみると「なんでこんなに窮屈なのだろうか」と思うのだが。
そもそもの窮屈をつくりだしているのは我々の意識でしかないのだろう。

話が散漫で申し訳ないのだがなんだか今夜は人と人のコミュニケーションについて考えてしまった。
僕の私見だが、その人がつくり出す音(生活の中の音も含めて)にはその人の隠しきれない「本性」があらわれる。
不思議なことだが我々は相手がつくりだす音をきくと瞬間的に「快」「不快」や「好き」「嫌い」という感覚を抱く。
そして根拠なしに仮想的に相手を自分の中に再構築する。
以降はその「バイアス」を通して相手を認識するようになる。

せめて自分はまわりにとって心地よい音をだせるように心がけたいものだ。
そのためにはいつも「上機嫌」でいるのが一番なのだろう。

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コメント

  1. 生野(ハルカ) より:

    こんにちは。記事拝読しました。
    小生もときどき困っている問題ですので、関心がありました。最後の上機嫌でいることが大事というくだりは、私が恩師にアドバイスをもらったものと同じだと思いました。

    以下に恩師の言葉をご紹介します。小生が人事労働問題で壁に当たっていたときにいただいた言葉です。

    「生きていると色んなことがありますね。
    どうぞこれからもお体に気をつけて、毎日を楽しく生きて下さい。
    とにかく、人生はしたいことした者勝ちですから! 
    人の迷惑にならない範囲で、良識的に、やりたいことを行うことができ、かつ世の中に何らかの貢献をできたら、と思います。」

    「良識的に」というところが少し私には欠けているかなと反省した次第です。5歳くらい年下の大学同窓の教授からいただいた助言でした。
    何か参考になれば幸いです。草々

    またいつかお会いできますのを大変楽しみにしております