「愛のむきだし」 〜映画という体験について考えた〜

長いこと放っておいた「愛のむきだし」をようやく観た。

飽きさせることのない237分は脳に強烈な印象を与えた。
視聴し終えて久しぶりにブログを書いている。

下記は視聴直後に書いたTweetである。

「「愛のむきだし」ようやく視聴。いやー、面白い。映画なんだけれど劇的というかストーリーテリングの体系がシフトチェンジしまくる感じが脳的で素晴らしかった。このギアが変わる感覚ってスゴイ好きだ。いやー、いい時間だった。これ、名作だ。」

アマゾンの感想をみると映画の内容について触れられているものが多かった。
自分の場合は上記のTweetでも触れたように「脳的」な感覚にまいってしまい、何かしらアウトプットせずにはいられずこうしてキーボードを叩いている。

映画なのだけれど脳的には映画ではない感じといったらいいのだろうか。

強引に自分の感覚を言葉にするならば

「視覚と聴覚を画面上の時間にゆだね、237分を脳的に別な世界で過ごした感覚」

とでもなろうか。

237分という時間、現実世界とは異なる時間軸と秩序体系に感覚をさらすことで脳内秩序と劇中世界が滲んでいき、映像と音声を通じてそこに描かれている情景とは別な意味を脳内で形成していくプロセスに自分はストーリーテリングとは別の心地よさを感じた。

この種の感覚を体感するには視聴する際に別な秩序体系への一時的な拘束、脳が劇中世界の秩序に慣れていくための視聴時間が必要とされる。

これに耐えることができれば、劇中世界と現実の自分との関係が滲んでいく。
(視聴時間の全てが必ずしも面白いわけではない。例えば「ストーカー」なんかもこの感覚に近くて、あの現実とはちょっと違う時間の感覚に長時間、身をおいていると徐々に感覚がディストーションされてきて映像が別な意味をもって迫ってくる。「愛のむきだし」に関していえば映像とテンポとテーマのバランスが絶妙で脳が慣れていく際の負荷が低くエンターテイメント性が高い。それでも通常の娯楽作品と比較すればかなり負荷は高いけれど)

そして、こうあって欲しいという自分の意志と、そこからズレていく劇中世界の秩序がせめぎ合い緊張が生まれ、それが脳に響いてくる。
観ている映像と感じる意味・概念がズレていく感覚である。

自分はこういった感覚を与えてくれる作品が好きだ。
しかし、それはめったに体感できない。
体力が必要というのもあるのだけれど、どうにか劇中世界との関係を構築できたときは「戦った」といった満足感が得られる。

「愛のむきだし」は久しぶりに「脳が戦った」そんな印象を受けた237分(作品)であった。

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