情報とノイズ

ブログの更新ができずにいたのは時間がないというのもあるが主に日々の多様な案件を処理するのに活力がスポイルされてしまっているのが原因である。一つの方向に脳のパワーを集中できればいいのだが5つも6つも方向性の異なる思考を要求されるため、発信に向けるパワーが確保できずにいた。

習慣とは恐ろしいもので毎日Keynoteで30ページくらいの素材をつくっているとそれが平常に思えてくるのだがこれが全く別な種類の作業(というよりも活動)を平行して複数走らせていると久々に企画書に手をつけようとしても3時間くらい頭が切り替わらなかったりする。

同じようにブログも毎日、書き続けていればいいのだが一定の時間が空いてしまうと書き方そのものを忘れてしまう。

自分の場合、ブログを書く時は何かしら「心」が動いた時に限られていた。

書き始めるきっかけは憤りであったり、楽しさであったり、喜びであったり、悲しみであったり、感動であったりいろいろあるのだけれどとにかく考察をはじめる最初の一撃は「心の振れ」だったように思う。

話は飛ぶが、ここ1年くらい15年ぶりにフルで働いている。

フルで働くといってもほとんどは会議以外の拘束もなく自由に動いているのだけれど、それでも自分のリソースの8割くらいはいまのプロジェクトに投入している。自分の場合、仕事と私生活の区別がないので、この場合の8割とは仕事の時間の8割ではなく生活の8割である。

といっても社会人になってからの15年そうしてきたので全く問題はないのだが、これまでとは明らかに違うことがひとつある。

日々、チームの面々と顔を合わせるとこれが「結構楽しい」のである。これまでも2年程度のプロジェクトはいくつかあったが今回はより密に参加しているせいか毎日が「部活」「学校」みたいなノリである。

おそらく良好な職場に就職した人々はこのような心境で社会人としての日々を過ごしていたのであろう。
15年を経て、学校に帰ってきたみたいでこれはこれでかなり面白い。

さて表題の話に戻ろう。

「情報とノイズ」

何がノイズで何が情報なのか。
これは結構難しい問題である。
あるコンテクストではノイズでしかない情報も別なコンテクストでは有益な情報に変わる。

同じ情報に接していてもそれを「情報」として活かせる人もいれば、ノイズとして素通りさせてしまう人もいる。
「情報」は同じでもそれを受け取る側のコンテクストによって価値は大きく変わってしまう。

数千人が集う塔を眺めていると情報の粒が価値とノイズに分離されながらエンタングルな関係を描く不思議を目の当たりにすることが多い。

ある人にとって有益な情報が別な誰かの前を雑音として通り過ぎていく。

やはり、久々に書くと話がまとまらない。
伝えたい何かがあって書いているのではなく、考えるために書くとたいていこうなる。

いろいろなところで「わかりやすさ」の重要性を指摘される。
しかし、その価値観は絶対ではない。
わかりやすい結果を求めているからわかりやすさが重宝されるに過ぎない。

あいまいなものやわかりづらいものは多くの場合、言語化しづらい。

「リンゴの味」

をリンゴを食べたことがない人に説明することほど難儀なものはない。

人にものを伝えるとは相手の側に存在している感覚を特定の情報(あるいはその組み合わせ)によって引き起こしてやることだと思う。
けれど、相手にそもそもの感覚が記憶としてレコードされていないとしたらどうだろう?

これはかなりやっかいである。
だから、新しい感覚は「わかりづらい」ことが多い。

内側に概念や感覚が存在しないので体験するまでわかりようがないのである。

ウニの味もビールの味もその味が記憶として回路に定着するまでは「ノイズ」でしかない。
ところが一度、記憶に定着し、感覚と記憶がうまくリンクすれば以降は情報をインプットすることで「おいしい」「うまい」を想起できるようになる。これが幾度も繰り返されると回路が強化され、快楽へとつながっていく。

以前、やまけんが「糖、脂については脳に回路をつくらなくても人間は「うまい」と感じることができるようになっているんだよね」といっていた。
感情や感覚にも「甘さ」や「あぶら」に近く、最初から快楽のスイッチと近接したものがある。

これらは回路をつくらなくても感じ取ることができる種類の感覚なのだろう。
こうした感覚はストレートな「欲望」や「感情」で背反した複雑性を持たない。

それがゆえにわかりやすく万人に伝えやすい。
一方で深みと複雑性は損なわれる。

制作費ばかりが高くて深みのない映画のようなものである。
ボタンを押すだけの釣りゲームもこの一種に見えてならない。

(と、ここまで書いたら疲れた。。。続きは明日)

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