「コクリコ坂から」視聴後の雑感メモ

(下記のエントリーはiPhoneで書いた)

少女のキャラに惹かれた。
それは目の印象にもよるものだろうか。
トトロに出てくるサツキを思い起こさせた。

劇中、二カ所心が揺れたシーンがあった。ひとつは下宿人がウイスキーを持ってくる夕べ。
もう一つは医者になる下宿人のお別れパーティーの情景。

こんなシーンをどこかでもみたような気がした。

登場する高校生達は皆、健全である。しかし、それがそれほど不自然でもなく。描かれる街には人の営みがあり人々の距離はいまの都市よりもずっと近く、コミュニケーションのハードルは低い。

ただ、過去への郷愁は個人的には好きではない。

カルチェラタンという古い洋館はサークル党として使われており「場」をともなった学生の共同体はとても魅力的だ。
しかし、ああした空間はもはや存在しえない。
情報環境が異なるからである。

それでも物語と舞台は魅力的である。
かなうならばこの健全な世界に間違って入り込んでしまいたい、そう思わせる情感がそこにはあった。

主人公はどこまでもひたむきで真っ直ぐで健全である。こんな人が昔はいたのかもしれない。いや、いまもいるのかもしれない。しかし彼ら彼女らの姿も声もみることがない。

それらは彼らの声がコミュニケーションの谷の向こう側にあるからなのだろうか。
人はその情報を閉じた方が安全であるケースに慣れすぎたのかもしれない。

小利口はダイナミズムを低減させる。
ダイナミズムの低減は流動性に制限をかす。

流動性とダイナミズムの源には本性ベースのオープンなコミュニケーションが必須である。
理解されないことへの不安と恐れは流動性を低めてしまう。
けれど虚空への飛翔なくして理解の橋はかなわない。

映画をみてしばらしくして、そのような終わらない問いについて考えた。

「虚空への飛翔」とは藤原惺窩の言葉である。
このフレーズは印象的でいまでも覚えている。

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