書くことと話すこと

海を飛ぶ夢」を見終えた。

中盤、ある映画のことを思い出した。

オアシス 

オアシス

という韓国映画である。

今年みた映画の中で最も印象深い一本のひとつだ。

繰り返しになるが僕が映画に求めるのは「異化」という体験である。

感動や悦びの感覚にも心ゆさぶられるが「異化」
はそれらの感覚とは別な位相にある。

「海を飛ぶ夢」にも用いられていたが、オアシスの劇中で用いられた異化表現は強烈であった。

異化を感じさせられた作品は幾つかある。「ユリシーズの瞳」等、一連のテオ・アンゲロプロス作品には感覚をディストーション(歪める)
させるシーンがいくつも見受けられる。

禅問答は言葉と意味を分離させるような言葉の用法を用いる。人の脳は意味の存在しない言葉から意味を読みとろうと躍起になる。
映画における「異化」もこの反応と同種の反応を引き起こす。僕にとってのコンテンツ性の中心にはこの感覚がある。

「ディストーションと異化」

脳内で言語が非言語的な働きをしているような感覚である。ズレる感覚は自分を魅了する。どうして引き込まれるのかはわからない。ただ、
反応せずにはいられない。脳的なのか感覚的なのか。おそらくその狭間の領域に座す感覚なのであろう。

「混沌をベースとした言語理論」

はこうした感覚の奥に存在する。人工言語の向かう先もこの周辺にあるのではないかと思う。

「秩序である言語によって非秩序である心を現せるのは何故か」

それが自分の出発点であった。いまだ、
自分にわかる言葉の範囲でしか言えないがそれはテキストの後ろに存在する不可視なテキストによる、と僕は考えている。
ソシュールが後期でアナグラムに没頭していったのはそこと関連しているのではないか。10年前にはじめてソシュールの研究について調べた時、
そう思った。

あらゆる物語はここという一点からスタートし、最後の点で終わる。自分はどの時点の何をみているのだろう。何故、この一点
(例えばこの文字)が意味を有するのだろう。

読む、観るという行為の中に「今」「未来」「過去」はホロニックに存在しているのだ。

先行的理解という解釈学の考え方を知り、そう考えるようになった。しかし、
それがどのように創造性の発現に利用できるのかはいまだわからずである。

いま僕はubicastというブログエディタでこの文章を書いている。

しかし、このソフトウェアそのものに先行的理解が介在するようなインターフェイスが実装されていたらどうだろう。
ブログというシステムそのものが創造性をドライブさせる機能を持っていたら。

ソフトウェアは狭間な存在になっていく。

創ることとコンテンツを消費することがパラレルに存在するようなソフトウェアがあっていいし、未来はそこに向かっているように思う。

デジタルステージが「ID for Weblife」のコンセプトを発表したときに衝撃を受けたのはそこに「旅のモード・
メタファーでWebサイトを構築する」と書かれていたからだ。発表されているソフトはそうはできていないのだが、
初めてその一文を読んだときに自分の脳裏には体験的にコンテンツを生成するエンジンのビジョンがあった。

なんだか胸焼けが酷くて吐いてしまいそうだ。

「嘔吐」は10年以上前に最初の数ページだけ読んだ。いまだに一年に一度は手に取るが毎回、数ページ読んで止まっている。

山田詠美の「放課後の音符(キーノート)」を高校生の頃に読んだ。感動はしなかったが最初の一編を読んだ時にグラリと来た。
人は言葉によって思考を限定される。高校生の頃の自分もそうだった。意識は一般という言葉や普通という言葉をベースに規定され、
TVメディアが思考の幅を決めていたように思う。

テキストはTVというメディアとは別な位置にあるせいか(自分も記することができるという点で)可能性を持っているのだな、
といま思った。書くことはまた面白いかな。

話すことと書くことは異なる。

僕は話すのが苦手だ。話しているのは自分だけれど、それを話している自分はそこに発生した関係性によってつくられた自分である。
自分が自分として自律しているのは書く方の自分ではなかろうか。

ポッドキャスティングという行為は書くことと話すことの間にある。

課題はテキストは「書く」と「読む」がパラレルに存在しているのにポッドキャスティングでは「話すこと」が「聴くこと」
とリニアに存在してしまっている。

この生成プロセスにイノベーションが必要なのだ、と僕は思う。

以上、雑記である。

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