表の河原で男が叫んでいる

午前4時。
河川敷テラスで男がなにやら叫んでいる。
なにがしかの金銭的トラブルに伴う闘争かと思ったのだがどうも違うようだ。

ベランダにでてみるとどうやら「別れる」「別れない」ということについて電話で激論しているらしい。
延々と30分くらい叫んでいただろうか。
時折、ドスっという音がするのは何かをたたいているのだろうか。

たいていの場合、男は女性に比べ人間関係の処理において「弱い」。

「弱すぎるんじゃないのアンタ?」

とツッコミを入れられて当然なくらいに弱さを露呈することも多々ある。
数年前までの自分も弱かった。

転機は唐突に訪れる。

結論からいえば「場数」である。
プレゼンテーションと同じで数をこなすことで脳内に回路が構築され、耐性ができ、だんだんと自分を客観視することができるようになっていく。
そしてある閾値を超えた瞬間(それは唐突にやってくる)「なんだオッケーじゃん」という感覚が開く。
そこからは「アイデア脳」の領域である。

「だったらこうすればどうだろう?」
「こうした方がいいんじゃないだろうか」

次々と解決策、改善案が浮かび出す。

アイデアはどこか遠い宇宙からやってくるかのようなイメージがある。
しかし、それは違う。
散漫な思考の欠片が最適なカタチで組み合わさると「アイデア」として認識されるのである。

物事の多くは俄(にわか)みたいなものである。

毎日はアドリブの連続である。
大まかな筋書きはあるけれど書き換えは可能だ。
実のところ何でもありである。
思考する力をコントロールできればこの世界は自在である。

脳には状態を保ちたいという本能があり「いま」に固執する。
なので新しい回路の構築を脳は嫌う。
英語の勉強やプログラムの勉強は類似した回路が無い場合、苦痛を伴う。

我々はちょっと先の未来を想像して自分の都合のいい近未来をつくりだし、それを実現するために行動する。
脳にとっては現実も想像も同じである。
そして「あるはずの5分後の未来」を守ろうとする。

ところが我々の脳では外部世界をフルシミュレートできない。
よって現実と想定した未来イメージとの間にはズレが生じる。
そしてこのズレをどうにか処理しようとする。

しかし、この努力は悲劇や苦痛やストレスを生じさせてしまう。
繰り返しになるが本来この世界は思考を客観的に制御できればかなりの部分自在である。

連休の月曜の朝の4時過ぎに外で叫んでいる男性。
彼は他者の振る舞いに自分の感情を預けてしまっている。

自分の感情を他者に預けることほどツライことはない。
自分の感情は自分のものなのである。

感情的になるなといっているわけではない。
感情の持つエネルギーは絶大である。
よって大いに利用すべきである。
しかし、そのトリガーを他者に預けることはやめた方がいい。
他者の感情や行動の奴隷になる必要はない。
自ら思考し決断するならばこの世界は自在である。
人々が自在に振る舞うことができる状態でのコミュニケーションが活性化することによってこの世界、そして情報は最適化されていくのである。

そして、ようやく外の叫び声が止んだ。

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