「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」 夏の朝と夕暮れと儚さと終わらない夏休み

ある日、偶然に「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」というアニメを観た。

最初は何が何だかわからなかった。
引きこもりの少年と少女の話。
数分間はそう思った。
しかし、物語は全く違う方向に進んでいく。
しばらくみていると少年の家にいる少女は幼少の頃に亡くなった幼なじみで彼にだけその姿が見える、という設定だとわかった。

舞台は適度に田舎で季節は夏。
この設定が想起させる情感はどうしようもなく懐かしく切ないものであった。

その感覚がどこから来るのかずっと考えていた。
「夏」には特別の感覚がついてまわる。

小学生の頃。
夏休みは特別だった。

夏休みの初日。
この時間が永遠に続く、そう思っていた。

しかし、永遠とも思えたひとつきが残り数日になる頃、夏も終わりを迎える。

この感覚は幾つになっても変わらない。
いつまでもついてまわる夏の儚さと対峙した時に生じる感覚は郷愁とも異なる情感を呼び起こす。

「あの花」にはこの情感がちりばめられていた。
人の心が解けていく瞬間と過ぎゆく夏の時間が調和された物語は時の中に別な時をつくりだしていた。

自分の中にある夏の記憶と感情の気配が呼び起こされるのは心地よさとは異なる感覚でずっとそうしていたい、という思いがしばしよぎった。
消えるのはわかってる。
しかし、消えないでいて欲しい。
儚さとの対峙は背反した感覚を行き来する特殊な情感をつくりだす。

ここ数ヶ月、時々、思い出してはこの夏の物語をみていた。
そして昨夜、夏の物語は最終話を迎えた。

もう少し、この物語世界と一緒にいたい、そう思った。
物語の終わりは古い友人と久々に出会い、話し、わかれるときの後ろ髪ひかれる感覚と似ている。

この物語性は日本固有のものではなく世界に通じるものなのであろう。
世界中でファンサブがつくられリアルタイムに物語が共有されていくのはその証拠である。

来週からフランスのジャパンエクスポにいってくる。
企業訪問と”necomimi”のデモが主たる目的だ。

分断された世界は物語によって再接続されていく。
夏の物語について考えながらそれを思った。

そういえば、もうひとつ自分が好きな夏の物語がある。
「ビューティフルドリーマー」という作品だ。

この作品でもテーマは「終わらない夏休み」である。
久しぶりに観てみたいと思った。

そうそう忘れていた。
「あの花」のエンディングテーマはZONEの「君がくれたもの」が使われている。
懐かしい曲だが要所要所での演出効果は絶大である。特に第10話での挿入のタイミングにはハっとさせられた。