「クワイエットルームへようこそ」 思いがけずいい映画に出会った、そして内田有紀の姿を久しぶりにみた

本を送る約束をしていたこともあり「クワイエットルームへようこそ」を先週、入手した。
10ページくらいしか読んでいなかったのだが昨夜、豊洲のユナイテッドシネマで映画版を視聴した。

■ストーリーには世界を変える力がある

見終わった後、ららぽーとの入り口の吹き抜けのあたりの風景が視聴前とは別なものに見えた。
脳が変質しているのがわかった。
映画によって脳のモードが3時間前とは別物になっていて、パっと開けたようなそんな感覚であった。

「ストーリーには世界を変えるチカラがある」

そんな言葉が自然と浮かんできた。
世界が軽やかに感じられた。

人の感覚は情報によって変質するのである。
電車の中ではしかめっつらのおばさんも適切な情報を取り込むことができれば彼女にとっての世界も変質し、風景が別物になる。
家の近くのコンビニの前を下唇をグっと鬼瓦みたいに突き出して不満そうに歩いていたおじさんも適切な情報を取り込むことができれば、一瞬で植木等@日本無責任野郎なモードになるかもしれない。

しかめっつらで生きるより、僕がさっきららぽーとの出口の吹き抜けの空間で感じた軽やかで広がりのある儚いけれど豊かな時間に僕は可能性を感じる。あのモードで24時間を生きることはまだできないかもしれないけれど、一日のうち30分でいいからあの感覚を持つことができるなら、その人は幸運である。

強くそれを思った。

しかし、僕は昨夜、映画を観るべきかある作業をすべきか若干迷った。
この迷いというものがくせ者である。
昨夜、僕は自分の迷いをうまく処理し、選択したが、これは全くの偶然であった。
何らかの方法論があったわけではない。
合理的な判断をしたわけでもない。
信号が丁度、青になってたまたまららぽーとの側に渡った後、左斜め上の方に何かを感じてそれがひっかかったので観に行ったのである。

「迷ったときはやった方がいい。やらずに後悔するよりもやって後悔すべき」

を実践したわけではない。

「おそらくたいしたことがない映画で見終わった後であーあ、やっぱな」

と後悔することに90%くらいの自信を持っていた。
じゃあ、何故そこでー90%の自信をはね除けてユナイテッドシネマに向かったのか?
何か理由があったのか?

「わからない」

理由は本当にわからないのである。
わからないけれど行ったのである。

ここ3年くらい、意思決定についての考察を続けてきて、ひとつわかったことがある。
成功するときにパターンはわからないが失敗するときのパターンのひとつ(必ずではなくそうなることが多いという気がしているだけだが)はわかってきた。

「効果を比較して脳でイメージングをしはじめる」

これを脳内でやりはじめると意思決定は6:4くらいの確率で失敗する。
完全にではないのだがゼロかイチかの選択の場合は考えたら負けである。
相手に選ばせた方がいい。
不思議だけれどこの方がいい。

もうひとつ法則らしきものが体感的にわかってきたので書いておこう。

「うーん、なんか面倒だな」

こう思ったときはだいたいやっておいた方がいい。
例えば

「いまは面倒なので後でメールバックしておこう」

みたいな時にメールバックなどしなくても何も起きないのだが、ここでサクっとやっておくと「転」が生じやすくなる。
「転」という書き方だと抽象的なんだけれど、「転」のエネルギーが時間ズレで反復増幅されて「展開」が発生しているように思う。

おそらく開通はしなくとも情報の間口が開くことが重要なのだろう。
これがあるかないかが複利みたいに効いてくる。

「転」とか意思決定の話はこのあたりにして、映画の話に戻そう。
「クワイエットルームにようこそ」の何に自分は「良さ」を感じたのだろう。

まず久しぶりにみた内田有紀が良かった。
役柄のダメっぷりが演技に見えないのがいい。
原作者が監督を兼任しているのがプラスに働いたのか文章から想起された映像(といっても10ページ分しか読んでいなかったが)とスクリーン上の映像に大幅な乖離がなかった。

と最もそうなことを書いたがそんなことよりもなによりも映像が持つ「リズム」がすべてだったように思う。
一言でいうと「ハマっていた」のである。
庵野秀明が出演していたり、演劇っぽい演出だったりと、内輪なつくりは僕はあまり好きではないのだがこの映画に関してはリズムがハマっていた。それがだんだんと脳に効いてきたのだろう。1時間後には映画の世界に脳のモードが取り込まれており、スクリーンの中の映像と自分の頭の中にあったルールがシームレスにつながっていた。世界の仕組みが同化していく感覚である。

これに入ると映画は別物のように振る舞い始まる。
モードがこちら側に伝播するのである。

この感覚がいいのである。
そして、ストーリーは世界を変えてしまう。
正確にはストーリーが人の頭の中にあった世界のモードを変えてしまうのである。

これを上手に生活に取り込むことができれば誰もが脳力をドライブさせることができるようになる。
ドラマ力による脳力のドライブ。

その可能性につよく魅了された夜であった。
エディタやプレイヤー、ブラウザ、といったソフトにもこのモードを取り込むことができるはずだ。

サスペンスを書きやすいエディタ、ロマンスを書きやすいエディタなんてものがあってもいい。
世界には、まだまだ使われていない、つくることができていない、そんなアイデアやプランがおそらく無限にあるのだろう。

それにしてもストーリーによって自分の頭の中にあんなモードが立ち上がってくるとは。
つくづく生きていてラッキーだと感謝した。


“クワイエットルームにようこそ (文春文庫 ま 17-3)” (松尾 スズキ)

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