「知らない爺さん」との邂逅に関するドキュメントブログが面白い

2週間くらい前「清野のブログ」というブログを偶然見つけた。
この清野さんという方は漫画家らしく、文章のあいまに挿絵が入る。
それらの挿絵と低解像度の写真とテキストのバランスが素晴らしくしばし読み言ってしまった。
しかも、漫画のように数話続く場合、各エントリー(記事)の最後は「クリフハンガー」(え?次回どうなるの?続きは?という終わり方)で終了する。

ブログというよりもある種完成されたエンターテイメントな印象を受ける。

僕がこのブログを見つけたのは最近なので過去の掲載についてはまだ未読であるが最新のエントリーで扱われていた

知らない爺さんち

というシリーズの出来は秀逸である。

TVのバラエティ番組などの場合、時間の流れは編集者によって制御されしまい映像から「がんばってつくってます感」が漂ってくる。意味や時間を強引に固定するつくり方の方が抽象度が下がるためわかりやすい。よって一定の値まで最低視聴者数を伸ばすことに貢献するが抽象度を犠牲にしているから視聴者側の能動的な参加を必要としせず、情報の深度は浅くなってしまう。

こうした情報はモードとしては面白いのだが接しているとノイズっぽいというか脳の中で動いている箇所が似てくる感じがする。

要は単調なのだ。

何がいいたいかというと上記の清野のブログの場合、こうした意味の固定されたわかりやすさと自分が介入しないと楽しめない抽象性の高い情報のバランスが秀逸なのである。

文字と映像と絵による表現なのだが映像によって全てが語られるわけではない。
読者の能動的な関わりがあってはじめて文字と絵はつながり時間を紡ぎ出す。

こうした時空を脳内に構築するには抽象度の高い表現が必要となるため(例えば好きという感情を表すのに小説だと
「好き」という言葉を使ったりはしないよね)、導入部で脳が文字から想起される世界をイメージとして定着させるまでに時間がかかり疲れてしまう。

なので「読む」のが面倒に思えて敬遠しがちだが、清野のブログの場合は絵と文字と写真と画面上の時間の流れ(各要素の間隔)が絶妙のバランスで配置され、導入時の負荷が低減されつつも、しっかり脳をつかっている(想像力をつかっている)実感があり、特異な世界観への没入が要求されるにも関わらず適度の負荷と適度のわかりやすさによって独自の「面白さ」が構築されている。

このように不思議で印象的な作品(?)がオンラインに存在していたとは驚くばかりである。

というわけで最近、感心したブログの紹介でした。
おそらく世界にはこのようなブログや表現がまだまだたくさんあるのだと思うとワクワクするばかりです。

追伸:それにしても「エキサイトブログ」のインターフェイスまわりのコピーは実にまぎらわしい。ブログタイトルの下にトップと書いてあれば該当ブログのトップであるべきだが、ブログポータル側のトップへと誘導している。こうした意味のない誘導はやめて欲しいものである。といいつつもRSSリーダーで読んでいるので関係ないといえば関係ないのではあるが。