汐留旅情とクラインの4元群

4月1日から汐留につめている。
このビルを建てる時にゼネコンの人たちと一緒にヘルメットをかぶって、1ヶ月ほど通い詰めたが今回はもっと長くなりそうである。

それにしても現代組織の情報環境・オフィス環境はそれ自体が複雑化しすぎていて大変である。

効率を高めるために考案されたオフィスビルという仕組みだが管理項目が増えすぎたため、余分なタスクが発生し、生産性を下げてしまっているようにみえる。

そもそも「場」が必要なのは人と人の間の情報を最適化していくためだと思うが、それならば人間の側のコミュニケーション能力が高まれば「場」への依存は薄れていくのだろうか?

ちょっと話が飛ぶけれど僕は「主観には競争が存在しない」と考えている。どっちのカレーが美味しいかなんてのは個々人によって判断基準が違ってくるから絶対的にウマいカレーなんてものは存在せず、それがウマいことを必ず証明できる客観的な理由付けや正当性は存在しない。乱暴な言い方だがその人がたまたまその時、ウマイと思っているに過ぎない(二日酔いの日はあらゆる食べ物が敵に思えてきたりするし)

競争のダイナミズムは否定しないが巨視的な視点では競争がなくても物事は前進していく場合もある。
勝敗が判断可能な種類の事象(どちらかに分類できるような事象は)は問題としてはそう難しくない、のかもしれない。

「場」の力によってダイナミズムが発現し、相互作用によって情報の最適化は進む。
しかし、完全な隔離状態でもエンタングルが発生する場合もあるのではないだろうか。

突発的に発生するエンタングル現象は「時間」にとらわれているからつながりがないようにみえるだけで時間を飛び越えるとそこには強力な絡まり合いがあるのだと思う。

「場」という拘束条件は魅力的だがどうも、それを越えることが求められているように思えてならないのである。

で、話は戻ってきて「主観」の本質は実は環境からワープしたところにあってどこかとどこかが認知限界を越えてエンタングルしているだけなのだと思う。クラインの4元群と南の島の話のように。