映画「櫻の園」 #sotsuomeと情報情感主義

明日で震災から一週間になる。
地震、津波と二つの災害があった。
そしていまだ片付かない原発。
自分の故郷はこの短期間に三つの災害に曝された。

都内でも地震の影響で交通機関に多大な影響が出た。

一週間前。
お台場から新橋へと夜道を歩いた。
はじめてレインボーブリッジを歩いて渡った。
地震により交通機関が止まり、お台場に足止めにされたのだ。

あれから一週間が過ぎようとしている。

南相馬には両親がまだ残っている。
避難は困難な状況である。

現地では物資が少なくなってきている。
こちらからは多少なりとも役立つであろう情報を送ることしかできない。

都内では「消費を止めてはいけない」という声が強まる中、トイレットペーパーなど特定商品の買い占めに先導されたアンバランスな消費が加速している。

これは単純に「気分」の問題である。
実際のところ商品が無くなるわけではない。
特定商品の枯渇が不安感を煽り、引き込み現象が誘発されているに過ぎない。

こうした環境下、今日の午後、都内では大規模停電のアナウンスがあった。
計画停電ではなく突発的に停電が発生する可能性がある、とのことであった。
実際には大規模停電は回避されたのだがこの情報が人々の「気分」に及ぼした影響は想像以上であった。

そんな夜。
本来であれば晴れ晴れしく行われたであろう「卒業式」と「卒業生」たちを想い、友人の岸君と中村君らが下記のサービスをリリースした。

sotsuome
#sotsuome

最初はよくわからず流れていくツイートを眺めていた。
しばらく眺めていた。
画面を過ぎていくツイートのモーションをみていると
どこからとなく懐かしい記憶が脳裏をよぎった。

高校時代に親友のヤマダに言われて「櫻の園」という映画を観た。

「そつおめ2011」と書かれたフィールドを落ちていくアイコンと文字はその映画を思い出させた。

久しぶりに映像を観るとダイアログが作り出す演劇的な時間の流れ方と過ぎていく時間が重なり、当時と同じような焦燥にかられた。
この感覚は映画もそうだがモチーフになっている「櫻(さくら)」という言葉が我々の中につくりだす情感によるのだろう。

なんだろう。
卒業をむかえる人達に贈る言葉はないけれど、いま感じている情感はシェアしたいと思った。
それで、久しぶりにブログを更新した。

この一週間、考えられないくらいいろいろな出来事が起き、そしてまだ続いている。
事態に対して有効な対応ができないのは個人の非ではなく構造やシステムの歪みである、との意識が高まっている。
しかし、ダイナミズムの果てにあるのが「今」だとするならば、憂鬱の先端を開くものが再びダイナミズムや古典であるとは思わない。
(災害だけでなく「いま」の問題がダイナミズムによって解決できるとは思わない)

その先には異なる情報感覚があるべきだと自分は考える。
それは「みずみずしさ」と「共感」をともなった情報情感主義とでもいうべき新しいタイプの考え方である。
(テクノロジーによるインプットの爆発的な増強とそれに対応した個々人での自律的なコンテクスト生成機能の実装による広義での情報最適化)
そうした社会をつくれたら、といまは考えている。

映画を観てしばらくしてから原作を読んだ。
吉田秋生の原作では

「風に散る 花橘を袖に受けて 君が御跡と思ひつるかも」

という万葉集からの一文が引用されていた。
教科書に載っていたものはほとんど忘れてしまったが、唯一、この和歌だけはいまでも覚えている。

追記:ブログを探したら3年前の4月15日に「櫻の園」について書いていた。劇中で「櫻の園」が上演される創立記念日は4月14日であった。

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■関連エントリー

2008.4.15 櫻の園
(エントリーにでてくる上記の「櫻」はヤサカさんと諏訪に合宿にいった時の写真だ)