四十九日と平成風俗
この二週間、シンガポール→パリ→サンフランシスコと移動が続いていた。
週末は5月に亡くなった父の四十九日の法要で南相馬を訪れた。
震災以降、常磐線は不通である。
福島駅まで新幹線で向かい、そこからは陸路で浜通へと向かう。
原発の問題がなければこれまでと変わらぬ夏の風景だ。
車中、音楽がなかったので書店で数年ぶりにCDを購入した。
棚にならぶアルバムは全て500円で販売されていた。
「平成風俗」というタイトルに目を引かれ手に取った。
カーナビにCDをセットし、津波によって破壊された海沿いを走った。
予想に反して重厚な前奏の後、心に響いてくるような声と目の前の風景がシンクロし映画のように通り過ぎていった。
田舎の法事には独特の空気の重さがある。
それは土地のつくりだす怨霊のようなもので場への拘束に起因する情報の滞留である。
拘束によってつくりだされた安定は心地よい。
しかし、人工的な安定への従属は淀みをもたらす。
サンフランシスコからの帰りの飛行機で「風の谷のナウシカ」を読み返した。
物語の後半。
世界の刻のから分離された街がナウシカをむかえる。
そこはヒドラによって管理された場所で外界からの干渉を排除し安定が保たれていた。
穏やかであり人類がつくろうとした未来を箱庭化した街である。
しかしそこにはダイナミズムがない。
南相馬の田舎の町で法要を主催しながら未来を想った。
数十年後、ここはどうなっていたら面白いだろうか。
「流動性」
自分のなかに浮かんだのはその言葉であった。
あらゆる側面において必要なのは流動性である。
福島駅に向かうバスが路線バスの延長ではなく未来を体現したようなビークルであったなら、人が思い描く未来像は異なるだろう。
乗客の脳裏に去来するイメージをドライブさせていくこと。
それこそがいま必要な情報なのだ、そう思った。