間の世界

オクダさんとあったのはもう二日前だ。

二十二歳の才媛である。
彼女の活動のエネルギーは本物であろう。
四ヶ国語を話し、脳外科医として働き、実業家として事業をつくる。
彼女は奢ることなくそれをおこなっている。

清田くんのもつあの空気とは異なるが透明な感覚があった。
彼女がのぞむものは何なのだろう。
そこにある根源は何なのだろう。
それをしばし考えた。

考えたがわからなかった。

翌朝、起きて空を見た。
太陽があった。
雲があった。
空があった。

そして久しぶりにブログを書いている。
昨夜、何年かぶりでナカセ君に会ったのがきっかけである。

ブログを書くのを止めてしまったのはtwitterやfacebookのタイムラインへの投稿の方が情報の流動性が高いからである。
エントリーというパッケージは常時接続が一般化し、大多数の人がスマートフォンを利用する現在の環境下では違和感があるように感じる。

ブログのエントリーは情報がそこにとどまっている。
ニュースサービスやFacebook、Twitterを通じて急速に伝播することもあるがエントリーとしてパッケージ化された言葉は基本的にはひっそりと自分の場所にとどまっている。

これは言葉というよりも文字の感覚である。
文章なのだからあたりまえ、と言われるかもしれないけれど、タイムラインを流れていく文字列はより言葉に近く発話されては消えていく。

文字であるが固定されていない。
面白いものだ、と思う。

先日、清田くんと話をしていた時にこう言われた。

「カガヤくん、「今」という時間は過去と未来の間にあるんだよ。過去の”カ”と未来の”ミ”でカミだよね、今って”カミの時間”じゃないのかな」

あらゆるものは間に存在する。
そんなことを考えた。

「今」という存在は「間」にある。

それは宇宙の摂理であろう。
どちらかに偏り、とどまり、安定しようとすることは宇宙の摂理の外にあるのかもしれない。
だからそうした存在や状態に接するとどうしようもないストレスを感じるのだろう。

「地球と太陽の間とは絶妙だよ。もっと近ければ干涸びるし、遠ければ凍ってしまう。この絶妙な間に生きてるのが我々なんだよね」

そんな話もした。

絶妙の「間」によってつくられているのが我々の世界。
なんとも不思議な気分になった。

それからずっとそんなことを話した。
安定と不安的の間、右と左の間、上と下の間、あらゆるものの間な状態。
相転移そのものが有するエネルギーと説明不可能な魅力。

こうしたものや状態がどんどん現実世界に入り込んでくる。
情報テクノロジーの発展はこれを加速させるのだろう。

あらがうものと「間」を取り込むものの混在。
そして、渦巻く複数の価値観、概念の変化と発生。

そんな稀有な瞬間に立ち会えるのではないかというかすかな期待がある。
いやはや、世界とは面白い。

伝わるべきところに伝わるべき情報がつたわる世界。
なんとかその気配だけでも実現させたいと日々思っている。

下記は先週発表した新作「neurocam」である。
気持ちを記録するカメラがあったら我々は何を感じるのだろう、そんなノリでつくったプロダクトである。来週サンフランシスコでデモをするので興味がある方は連絡をください。