雑感モロモロ 人と言葉と時間と心

先週も様々な出来事があった。

出来事とそこから派生する情報が別な層で結晶化し、不安定化するという状態を繰り返していた。

リアルな散逸構造であった。

言葉によって対象のイメージは変化していく。

しかし言葉以前にも対象の本質はそこにあったわけで変化は自分の脳内で起こっている。

ここに時間という要素が絡んでくると記憶の再生過程が微妙なスパイスとなり更に非存在性を増した像をつくっていく。

こうした思考プロセスこそ「俄」の神髄である。

人と人の関係についてもよく考える。

一方には客観的な視点があり、もう一方には制御不能な意識が存在する。人の意識は両者の狭間でせめぎ合っている。

正しいものとそうでないもの、という区別をしたがるが明確な違いはない。関係性よって意味は常に反転する。
あらゆる物事は地と図の関係にあり静的に固定されたものではない。コンテクスト(関係性)によって揺らぎ反転する動的な存在である。

背反するものが共存する状態が自然なのだ、とも思う。夜と朝、白と黒、上と下、右と左、等々、
量子の世界からマクロなシステムまでどこの層にも対立した構造が存在する。しかし、それらは固定的ではないし、否定的でもない。
パラレルに存在している。

面白いのはそこだ。

「心にひっかかる」という感触がある。

たまにそういう感覚になる。

人を表現するにはいろいろな言い回しがある。

昨日、僕が思ったのは「不穏」という言葉だ。不安ではない。不穏である。不安の産み出すダイナミズムはフィードバックであり、
系が閉じている。一方、不穏が産み出すダイナミズムは方向が内向きか外向きか未確定である。異化的感覚といったらいいだろうか。
人は不安定にある方がダイナミズムを発揮しやすい。

セレンディピティな感覚はこの狭間に発現するように僕は思う。

安定と不安定のバランス。

散逸構造の波。

「草の竪琴」の後書きに書いてあった(と思う)螺旋を飛んでいくイメージを時々思い出す。
このイメージと縦に波打つダイナミズムのイメージは同一の対象を別な角度から描写しているように思う。

「私」という感覚をどう文脈づけるかで世界と自分ではなく自分と世界との関係が決まってくる。

 

「いい」(良い)について。

いい音楽、いい本、いい映画。

そこには何かしら本質的なものが含まれている。

その起点、本質は形と形以前の間の関係性であろうと僕は思う。

人は本質的にそこに反応せざる得ないのだと。そうした本質部分で人と接することができればといつも思う。

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