「プロフェッショナル・秋山咲恵」を視聴 日本の企業ってウェットだ
先日、録画時間がズレてしまっていた「プロフェッショナル・秋山咲恵」を視聴した。
この番組を観るまで秋山さんがどんな人か知らなかった。
下記が番組のページである。
http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/060427/
番組では彼女の意思決定の場面を幾つか取り上げていた。以前、ラジャの藤田桂子がテレ東の番組で取り上げられていたのだが「キン」
とした感じが似ていると思った。
二人とも意思決定の場面でそうなのだが凛としているというよりも、喧嘩ライクな感じといったらいいのだろうか、「楽しい」
というモードとは違うモードに入っている。
番組ではある社員がリーダーに抜擢され、ミスをして、目覚めて一兵卒からやりなおすというストーリーが組み込まれていた。
これもどの会社にもあることなのだと思う。以前みた新宿のキャバクラの店員さんのドキュメントでも全く同じ構図が描かれていた。
彼は抜擢されていきなり店長からスタートし、一日目にミスをし、客に気に入られようと進められるままに飲んでしまい、
酔っぱらってしまった。閉店後、オーナーが登場し、猪木ばりの強烈なビンタを5発くらいくらい、翌日からビラ配りになる。
彼はもともと女性のスカウトの腕がバツグンで一本釣りでその店に入店していた。
自分のドメインに気づいたのであろう。翌週から彼は動き始め他店のNo.1の女の子をスカウトすべく動いていた。
こうした動きなど狭い領域とはいえ政治的な印象を受けた。
話を秋山さんの会社にもどす。この会社、サキ・コーポレーションという。
彼女の統治・ガバナンスの仕方をみていると「ウェット」という言葉が思い浮かんだ。これはこれで嫌いではない。
人は失敗するとやる気になる。
また、成功によってもやる気になる。
「失敗が人を育てる」という言い方がある。
しかし、この表現には違和感を感じる。失敗が人を育てているわけではない。失敗も成功も記号である。
それ自体は能力のドライブには関係ない。
結果として脳が「ときめく」「きらめく」「活発化する」ことによって人の能力がドライブされ、
脳の回路が新たに構築されることで視界が開ける感覚が発生し、結果、メタな部分で人が成長するのである。
よく「あの人は変わった」という言い方をする。物理的に脳が変更しているのだと思う。
人は「情報」がインプットされることで反応する。番組中、中堅の男性社員が急にやる気なって奮起するシーンがある。
彼のやる気に火がついたのは彼の脳が変更したことで表現として行動や言動が創出された、というとらえ方をスル法が僕は好きだ。
人は情報を通す管みたいなものである。食物も言葉も視覚もあらゆる感覚もこれらすべては情報である。
快楽も歓びも反応はインプットに対する反応であり、複雑な相互作用の所産である。
失敗や成功は非日常的な出来事、イベント化された時間の呼称である。これらは時間にマップされた情報的なエネルギーの高まりである。
「イベント」は人の能力をドライブさせる。ただし、どの情報に反応するかは個人的なものだ。これは記憶が個人的なものであるためだが、
ある程度の枠は存在する。規模の大小はあるが社会が共有している記憶もある。
ここにフラグが立つような情報がインプットされると集団が反応する場合もある。散逸構造をみているかのような錯覚におちいる。
そういえばコンテンツの多くはどこかしら脳の奥の動物的な処理機能に働きかけるようにできている。「もののけ姫」
も総合的にはストーリーに反応しているように感じるが案外本質は「ヌルっと」とか「生々しい」を感じる部分があって、
そこを刺激されることで情報が入りやすい状態をつくりだしている。
失敗や成功は付録みたいなものである。イベントに着いている記号がたまたま人の社会では意味とリンクしているに過ぎない。
話がだいぶ脱線した。
秋山さんのガバナンスも、ラジャの社長のガバナンスも、
多くの組織のガバナンスも人の感情に働きかけるタイプのウェットなガバナンスである。
日本だけでなく世界中でそうなのだと思う。
しかし、この種のガバナンスには限界点があると感じている。
面白いし、わかりやすい。
だが効率が悪すぎるようにも思う。
こうした議論を進めていくと「人とはそういうものではない」みたいな言い方をされることがある。それもわからないではないが、
そうした志向には懐古的な印象を受ける。
この種のガバナンスはコミュニケーションが波打つ時の心地よさが発生させるエネルギーを変換し人をドライブさせる。
だがエネルギーを産み出すコストはゼロではない。コストはカタチを変えてフィードバックされる。
例えばの話だが、やろうと思えばこの世界をぐるりと一周する電車なり道路なり、つくることは不可能ではない。
星にいくことも月に何かをつくることも不可能ではない。必要性の問題は別として。
それらができずにくすぶっているのはコミュニケーションの本質的な効率の悪さがひとつの理由だと思う。
ネットが今日のように広がっていく様をみていると、情報体としての人は「幼年期の終わり」が描く未来像といかないまでも、ウィット
(ウェットではない)、あるいはスマートなモードでのオプティマイズに向かっているように見える。これが太極図の一方で存在し、
もう一方にはトランスシタシスとしてカオスへの欲望を予見させるウェットさのダイナミズムがある。
この両軸のバランス状態が理想だがウェットの方がわかりやすすぎるため、傾斜しているのように見える。
面白いのはこの二者が相対していることで情報的な価値は最大化する点だ。
ここで最初の話に戻る。
僕はウェットなガバナンスが嫌いではない。しかし何かがひっかかるのだ。秋山さんのガバナンスや握手のシーンなどをみていると「いいな」
という気持ちもあるが「この世界ってこんなに面倒であるべきなのだろうか?」と感じずにはいられない。
ドラマとしてのウェットさは嫌いではない。ただし、何かが違うのだ。
あの場面にあったような「いい?今回、失敗したらもう終わりだよ」みたいな話が機能しなくなる世界もあっていいはずだ。
そういう世界が半分にはあり、
同じようにこの世界の半分の人でいいからクリエイティブな脳を働かせている状態では世界の雰囲気がガラっと変わると思うのである。
自分個人の考えを言うと世界のエネルギーがフリーになり、事実上無限になるという状況は創りうる。また、そうあるべきだと思う。
ウェットさに価値を与える対極側、そこを補完するパートに自分は興味がある。
少し、整理できた。
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