ようやく週末

ある案件をひとりでやっている。

理由は様々。

火曜日すぎたらチームで共有させてもらおう。

俄だよなあとしみじみ脱構築。

昨日、茂木先生の声を久々にきいた。

昨年は一緒にのみにいったりしたのだから人の縁とは不思議だ。

「俄マインドをキープする方法」はあると思うんだがうまいこと波乗りをしていかないとサイレントヒルよろしくサイレン発動で三角頭が世界をバリバリめくっていって、ディストーションしてしまう。

昨夜、アート関連のイベントの後、渋谷を観察しながらゆっくりと歩いて帰ってきた。

この時期の土日の夜の渋谷は街全体がひとつの店のようでストリートが「外」ではなく圏内と化し、場に集う人々の間にある種の共感域をつくり出す。

完成型からはほど遠く荒削りだけれど街がメディアとして機能するとはこういうことなのではないかと思った。思えば土日の秋葉原にも似た感覚がある。領域のモードが変質し、有機体のように街が呼吸している。

歩きながら「これも悪くないな」と思った。人ごみは嫌いだし、渋谷の雑多で質感の悪さは好きになれない。けれどそれは全般的な印象であって、領域に付随する「時間・場所」のダイナミズムに着眼するならそこにある生々しさをともなうモードには強く引きつけられる。

言い換えれば場所がコヒーレントな関係をつくりだすモードに転じる「時間」があり、自分はそこに反応する。

組織の盛衰も似たようなものかと思う。

動的な協力性を組織が有している場合、それが発動している「時間」と「場所」にはコヒーレントな関係ができやすくなる。このダイナミズムはセレンディピティな感覚と似ているように思う。

ダイナミズムの因子はキュービタルに存在し、それらの間にエンタングルな関係が生じると「セレンディピティ」として認知される。エンタングルな関係が発動する要因は「時間と場所」にあるが、そこには予測不可能性が不可欠で世界が持つダイナミズムを何らかの形で組み込むことでしかエンタングルな関係は形成されないのではないかと考えている。

マクロとミクロの背反する認識がグルリと入れ替わる転換点があって、そのバランスポイントでダイナミズムが最大化されるように思うのだ。これを普段の生活でシミュレートすると、動的に変化する外部的な要素とこれまた動的に変化する他者の思惑の狭間で意識が振り回せる些事としての世界と、量子が常時確率的に存在しながらそれでも地球が回っているみたいなマクロスコピックな世界、人はかなり大雑把にいうとこれらのどちらかに加重を置くことで安定をとろうとするがその政策によって生じる安定は本質的な部分で対極を内在しており、「時」の効果によってダブルバインドに陥る。

常時転じることはひとつの回答だとは思うがそれだけが答えでもないように思う。

物質にしても突き詰めていけば情報の領域の問題である。

本質といえば「意識と本質」という本を10年間ほったらかしにしてあっていまだ途中までしか読んでいない。

収録されている「beyond dialogue」というテヘランでの講演録が面白いのである。

全然関係ないが昨日「うつうつひでお日記」を買った。うれしいことに「神童」という作品もみつけた。冒頭、こんな会話ではじまる。

「オールに耳をあててみ、魚がしゃべってんのきこえるぜ」

このシーンのコマ割りからつくりだされる質感がなんとも映画的である。



“神童 (1)” (さそう あきら)

“うつうつひでお日記” (吾妻 ひでお)

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