リアルクローズとモード 洋服の情報化の風景
先のエントリーで触れたNHKスペシャルの「東京カワイイウォーズ」だが視聴以降、頭がボーっとしている。何かが頭の隅っこに引っかかっている。何かをしていてもバックグランドで何がひっかかっているのかを見つけようとする思考タスクが動いている。
用語について説明しておくとリアルクローズというのは「今着たい服を今つくる」というかなりオンデマンドに近いかたちで生産される洋服のことでそこではコピーがコピーを生み、消費サイクルは約2週間程度。それを過ぎれば製品は旬を過ぎ、すたれてしまう。とにかくものすごいスピード感である。生鮮食品のように洋服が一週間で「古く」なり、消費されつくしてしまう。
それに相対するのがブランドなど長時間かけて制作される洋服で番組では「モード」として扱われていた。モード側の代表としてコシノヒロコがコメントしていた。このコメントにものすごいショックを受けた。
彼女の話はおよそ次のような内容であった。
109で売られているような短期間にワーっと流行り、そして消えていく洋服群はビジネスとしては成立する。しかしそれらは短期的なものであって消費されつくしてしまえば消えてしまう。短いものである。我々のように自分というもの。自分の思想、信念で洋服をつくる。それがオリジナリティであり、これこそが全ての根源にあるわけで、私はリアルクローズを否定する。
だいたいこんなニュアンスだった。異様な既視感で頭がクラクラする。政治もスポーツもコンテンツもゲームも会社も組織も学校もどこでもいたるところでダイナミズムが表面化する場所では必ず同じ構造が現れる。
頭では理解できるのだが彼女のコメントがどうにもまっすぐに入ってこない。
対してリアルクローズ陣営は雑然とした狂気にもにた危うさがむんむんむわむわと漂う。サウナ状態である。
素直にすべてを良しとは思わないけれど時勢とダイナミズムの魅力はあらがいがたい。
なるほど年代とはこういうことかと思った。
後半、イッセイミヤケの社長がコメントをしていた。彼はリアルクローズ陣営のポップなエネルギーを取り込むこと無しにモード陣営が立ち直る術はない、と決断していた。
番組では某アパレルメーカーの盛衰とリアルクローズ陣営との協調による復活劇を通じて両陣営の姿をドラマチックに描いていく。ドキュメンタリーという名の創作ではあるけれど、対立構造による盛衰劇を使った演出は実に面白い。
ぼんやりとだが同じ構造が別な業種にも存在しているのではないか、と思った。
音楽について考えてみた。
なるほど音楽においてはケータイによる配信以外では明るい話題は聴かない。
CDの売り上げは右肩下がりで下降の一途をたどる。
一方、ケータイによる配信マーケットは拡大を続けている。
「ケータイで聴かれる音楽にろくなものはない」「ケータイからは新しい音楽は生まれてこない」
という話も良くきく。それも事実だな、とも思う。
けれど、本当だろうか?
実は音楽コンテンツにもリアルクローズのような現象が生じる土壌が育ちつつあるのではないだろうか?
ゲームの場合はどうだろう。
重厚長大な作品は存在しつつも、別なマーケットとしてDSに代表されるようなライトコンテンツは着実に広がっている。
ただ、脳トレのようなライトコンテンツは消費のされ方も商品としての生存時間も異様に長い。
なのでこれをもってリアルクローズと単純比較を行うことはできないのだけれど、僕が注目するのはライトコンテンツが押し広げた土壌である。ゲームゲームしたゲームでなくともインタラクティブエンターテイメントは成立しうる、という認識、回路が一度成立してしまえばあとはその回路に情報を的確に流してやれば人は反応せずにいられない。
であればこういうゲームも成立しうるはずだ。人生で30分だけ、ある瞬間にだけ最高に楽しくハマれるコンテンツ。こうしたマーケットはまだ確立されていない。ただ、十分にあり得ると僕は考えている。
強力なライブラリとインフラがネット越しに完備された場合、作品をリアルタイムに制作し流通させ回収することは可能だ。その場合、必要とされるクリエイターの資質は現在のゲームクリエイターの資質とは異なるものになる。
コンテンツの役割が違うのである。
これが、リアルクローズのデザイナーとモードのデザイナーの違いとかぶってみえてしまう。日本のゲームの場合は洋服ほど階層化が進んでいないのでモードなゲームクリエイターがリアルクローズ的なゲームをつくったりするケースもあると思うがそれでもゲームとは関係がなかった場所から、これまでのゲームのモデル(ビジネス含む)とは異なり、極度に価値継続時間が短く、制作タイミングがリアルタイムに近いようなゲームが登場してくるのではないかと思う。
実際にプレイされているゲームの総時間でいったらライトコンテンツの王様である「ソリティア」や「テトリス」に全人類でどれだけの時間を使っているのだろう。
話が拡散しつつあるので少しまとめておくと。
良質のコンテンツ、製品の重要性は高まる。
しかし、ライトなコンテンツ(リアルクローズ等)によって別なレイヤーとしてのベースのベースになるおおもとの土壌は豊かになっていくんじゃないかというのが僕の考えである。一般的にはライトコンテンツによって土壌は疲弊する、と考えられるのだがこれがカウンターで逆に働くような気がしているのだ。
ライトコンテンツそのものからはコンテンツの根源的、本質的なエネルギーは発生しないとしても、それがカウンターとして存在するならば一方が拡大するとき、一方は衰退するが、そこに対立構造が成立しうるならば必ず盛衰は相互に繰り返される。このサイクルが創造のダイナミズムの原点であり、危惧すべきは盛衰ではなく対立項が消失してしまうことなんじゃないかと思うのである。
で、話は飛ぶけれど、それが極限までいきつくとサイクルが限りなくゼロに近い時間単位で行われるようになり、相転移となり別な位相に突入するというのが僕の考えである。
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