犬が吠えた 初期値としての記憶は反復増幅し人の社会を覆っていく

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川沿いを走っていたら犬が飛びかかってきた。
といっても大型犬ではなかったが。
飼い主は誤りもせず「ヤメロ」と怒鳴っていた。

また吠えてきたので蹴飛ばしてやろうと思って追いかけていったら逃げていった。

犬は家族も一緒、という話を聞いていたが蹴飛ばしていたら大げんかになったのだろうか。

こんなことが今日も日本中で起きているのだろう。
僕の場合は犬だったから適当にあしらったけれど相手が人間であったらどうなっていたのだろう。いかなる出来事もそれが心情に訴えかけてくるネガティブなものである限り、その記憶は本人の与り知らぬところで反復増幅されその人の行動へ影響を与える。

これが個人に限定された現象であれば広大な人間の世界で中和・吸収される。しかし、どこかでウィンドウズオブオーダーとして組織化されパターン(秩序)が生じるとそれは伝播波及し暴力的なパワーを伴い、人の世界を覆っていく。

自分はこうした現象、仕組みに対して興味を持つ。
反応せずにはいられない。
仕事や日々やっていることもどこかでこの視点との接点がある。

仕事に対して思うのはこれらは全て「俄」みたいなものだということである。
この視点を忘れると思考が内向きになる。
組織が崩壊するのはほとんどの場合、内部的な理由である。
そして思考が内部に向かうのは「俄マインド」を失するからである。

居酒屋やガード下に限らず、喫茶店でもファミレスでもどこにいってもサラリーマンな人々に限らず、一定の割合の人は必ず仕事の話をしている。内容に耳を澄ますとそのほとんどが内向きな思考である。そうした人々をみるにつけもったいないなあと思う。

人生において限られた時間である自分の時間を仕事を起点とした脳内の仮想世界での内向きな遊技に投じるのはあまりにも無益ではなかろうか。

繰り返しになるけれど自分を取り巻くこの世界は「俄」みたいなものである。

時間の拘束が存在する以上この世界は「俄」である。
自分の脳を最もドライブさせることに手持ちの資源(時間、人、お金、思考エネルギー、体力)を投じることが本質へと迫る唯一の道だと思うのである。

クオリティオブライフってそういうことではないだろうか。

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