メタバース再考

ふとメタバースについて考察してみたくなった。

はじめてセカンドライフに接したのは随分前のことだ。
そのときはひとつも面白さがわからなかった。
マシンのパフォーマンスもわるかったがそれ以上に奇怪な世界にビビったのである。
アバターもみなれないものが多く、カラーリングも日本のゲームとはかけ離れていた。
リネージュ2はだいぶ馴染みやすいようにも思えたが、それよりなにより話しかけられるのではないかという恐れの方が強かった。

あの恐怖感は現実世界でのコミュニケーションに対する恐れとは異なる。

現実世界でも、日々、知らない人と会い、コミュニケートしている。
苦ではないが本来やるべきことは別にあるということをどこかで自覚している。
持っている脳力を使い切ることなく時間が過ぎていくことに憤りと焦燥感を覚える。

これは自分だけの感覚だろうか?
ほとんどの人が自分の脳力の限界点を超えるギリギリの場所にいきたいのにいけずにいるのではないだろうか。時々、あの領域までいけることがある。肉体的、脳的な負荷とは別に緩やかな充実感に包まれる。あの感覚は格別である。

あの感覚を得るために人は生きているのではなかろうか。
偶然と必然の狭間で人は悩む。
全ては、といってしまうのはあまりにも大風呂敷であるけれど、

「いくべきところにいくべき情報が伝わること」

で世界は変わると自分は信じている。
しかし、この世界において情報はそうはうまく伝達されない。

誰もが、活きる場所、活きる時間、活きる対象を有しているはずなのだがそれを見つけられる人は少ない。目の前にあることに全力でぶつかることが運を掴む起点になる、とよく言われる。
しかし、この言い方は正しくない。

ようは目の前にあるものでも遠くにあるものでも何でもいいのである。
脳力の限界点近くまで集中すると突然感覚が開くのである。
この時の脳の状態こそが情報の最適化の鍵であり、偶然と必然の境目なのだと僕は思う。

僕はメタバースの中に情報の最適化問題を解決するきっかけがあると考えている。
100万人の分身が自律的に生活するメタバースが並行して存在しているとしたら、いや、もっと簡単に自由に使える100万の分身が並行して存在しているとしたら、現実世界の自分は労働的なもの全てをやめるのではないだろうか。

脳がドライブする物事に対して、時間と脳力を集中させるのではないだろうか。
楽園暮らしとは異なる、能動的で脳がドライブする時空間での生活。
24時間のうち30分でいい。
毎日、そんな時間を持つことができるならばそれは幸福なことだと僕は思う。

そういう未来が案外近いところにあるように思うのである。

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