雑誌「Web ○○○○○○」の担当者の肖像権意識が希薄な件

随分前のことになるがある出版社からでている「Web ○○○○○○」という雑誌に自分の写真がでているのを見つけた。

イベントにいったときに撮影されたもののようだが特集ページで講演者よりも大きく掲載されていた。
これをみて編集部に

「自分がでている写真が掲載されているのだけれど、この写真もらえますか」

と問い合わせたらバカにしたような文面で

「写真はカメラマンに著作権があるためできません」

との返事があった。
著作権云々の前にあんたの雑誌に出ているのは「オレ」なんだけどな。

そこで

「ではカメラマンと直接交渉するのでカメラマンの連絡先を教えてください」

と再度連絡すると以後、連絡は途絶えた。

肖像権といってもまあイベントなので開催要項に写真を使わせてもらう云々の文言があるから、といった言い訳があるのだろう。しかし、重要なのはそこではない。事後の対応である。人としての対話すらできない人間がフロントに立って外部との窓口を努めていることに大きな問題がある。

気に入っていた雑誌なだけにこうした心ない対応は非常に残念である。

とはいえ多くのメディア運営者の意識とはこの程度のものなのだろう。

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出版社や新聞社と関わる中でこの件を思い出すことが多い。

というのは

「どっちにする?」

という選択を迫られる局面の多くでメディア運営社は

「守り」「保守的」

な方を必ず選択する。

「これをやったらこんなクレームきそうだね、それ面倒だからやめようよ」

とか。

個人ではそういう面倒なことができないから防波堤をつくってスムーズやるためにメディアを法人化して存在させているのではないの?と思うわけだが「情報」や「メッセージ」を伝えることよりも手段であったところの「メディア」そのものの継続や存続が目的化してしまい、本来なんの為のメディアだったのかという根幹部分がグラグラしている印象を受ける。広告をとるために売れる記事をつくるという考え方は非常にわかりやすいがそれならば情報の精度などはなから無視してもいいのではないだろうか。そこのせめぎ合いがメディアの現場を息苦しくしているのだと思う。だからネット系のメディアがスルスルっと出てきてしまう余地をつくってしまったのだろう。

ある種の官僚くささみたいものがいろんなところにあって個人の声を発する前に組織の声が先行する。そうやって思考がすり替えられれ自分の意志が希薄化していく。しかし、内部でやりとりをしている限りそれを指摘されることはない。だから気づくことなく同じようなすり替えが蔓延していく。

先の出版社の対応についてもそのような印象をうける。個人個人は悪人でもなく、優秀な人なのだろう。しかし人としてそれでいいのか?ということを僕は問いたいのである。

とまあ青臭いことを書いてみたのだが業界にいれば業界っぽく振る舞うことは誰でもできる。しかし、そんなことはひとつも重要ではなく、その人がどんな言葉でどんな意志で話すのか、その人はどんな人なのか、という部分に僕は心をうごかされる。また、そうした言葉が人や社会を動かすのではないかと僕は思うのだ。