中秋の名月に思うことと地方と情報と「幼年期の終り」
帰り道。
月がやけに眩しかった。
調べてみると中秋の名月であった。
宇宙の日もかぶっているそうである。
昨日は岐阜のソフトピアで様々なディスカッションをさせてもらった。
今後、地方はどのようにスマートフォンやデジタルメディアと付き合っていけばいいのかを考えた。
地方には生産ラインはある。
しかし、プロデュース能力が不足している。
解決策はあるのだろうか、としばらく考えた。
ビデオマーケットの高橋さんやGClueの佐々木さんとも話をした。
地方でどうしてベンチャーが困難なのかについて議論した。
海外では地方にも有力なベンチャーがあるのになぜ日本にはないのかを考えた。
そこで二人と意見が一致したのは
・地方にいるベンチャーで「受託」をビジネスにすると都市部との距離がネガティブに働く。
・一方で非受託事業の場合、生活コストと風土の快適さが有利に働き「ユーザー」のためのプロダクトやサービスに集中することができる。
・よって、地方でベンチャーを行う場合「ユーザーのためのサービス・プロダクト」を開発する事業を行うこと、が有効である。
という点である。
これはとても腑に落ちる結論であった。
前からわかっていたはずだが言葉として人と共有できたことは大きな価値であった。
話は飛ぶが上記の写真は今年の誕生日に自分が敬愛してやまない永遠の少年「きよたくん」と撮ったツーショットである。
何かしら心が惑う時、清田くんとの対話を思い出す。
様々な場面で人は迷い惑う。
惑わすもの迷わすものに共通して感じるのは「俗」という感覚である。
必ずしも悪ではないがかといって100%受け入れられるものでもない。
だから惑い迷うのであろう。
自分がそこで何故、清田くんとの対話を思い出すかといえば理由は簡単である。
本音で話せるからである。
これは簡単なように見えて難しい。
本音で人と話すとは藤原惺窩のいう「虚空への飛翔」と同意である。
あらゆる人が本音でコミュニケートできる世界はくるのだろうか。
あるいはつくることができるのだろうか。
それともつくるべきではないのか。
この2000年間の情報テクノロジーの進歩がオメガポイントへと向かっている、とするならばそこ(未来)でのコミュニケーションは今日の我々が行っているそれとは大きく異なることになるだろう。
それは「幼年期の終り」でアーサー・C・クラークが描いた情景に近いのだろうか。
それがどのような光景であれ、自分はそれをみてみたい。
それが日々をいき情報と接し続けている最大の理由である。