「川本真琴」 久しぶりに音楽で感動!音楽と非可逆性と儚さと

昨夜は某プロジェクトミーティングの後、ミーティング第二部。

オレ以外は皆さん音楽関係の仕事をされている。

何かの流れでイシカワさんがアレンジを担当された川本真琴というアーティストの話になった。

オレは音楽に疎いのでどういう位置付けのアーティストなのかよくわかっていなかったが帰宅後に「愛の才能」という曲を聴いて衝撃を受けた。

モロ好みの曲である。

こんないい曲をこれまで知らずにいたのか?!

恐ろしい。

調べてみると作曲は岡村靖幸である。

好みな曲なわけだ。

高校時代に岡村靖幸の「19」を聴いて以降、大ファンなのである。

なにせ生まれて初めていったライブは岡村靖幸である。

しかも前から3列目。

あの頃の岡村靖幸はかなりきていた。

CDで聴くのとは別世界である。

帰りの電車で1曲目からアンコールの二曲目まで何曲あったのか数えてみたり、とあの日は本当に楽しかった。

さて、川本真琴だがどうにか聴くことができたのは「愛の才能」と「やきそばパン」の二曲。

いやはや、こんなアーティストがいたのか。

音楽知らなさすぎである。

ショックだ。

残念ながらiTMSでは買えないので早速、CDを借りてこよう。

それにしても音楽で感動したのは久しぶりである。

川本真琴 

川本真琴

追伸:さっきからヘビーローテーションで「愛の才能」を聴いているのだけれどこの曲の
「あの子にばれずに誰にもばれずにキスしようよ 明日の一限までには何度もキスしようよ」
という部分の音のつらなりがつくりだす質感がたまらない。音をここに貼り付けることができないのがどうしようもなくもどかしい。
自分がいまここで感じている音の質感を言葉で表現することは不可能だ。

これは物質的なものでもないし、かといって非存在でもなくて、その瞬間にだけ存在し、
消えていってしまう本来は非可逆な質感である。
それが固定されるでもなく存在と非存在の狭間として存在している。
そこに強く感応しているように思う。夕日や朝焼けが妙に美しく感じられる時があるけれど、
その時間が不変ではなく消えていってしまうはかないものだと直感的にわかっているからそこに固定可能な情報とは別の質感を感じるのだと思う。ああしたシーンに出くわすとその情報量と質をひとりで受け入れることができなくて(いっぱいいっぱいになって)誰かに伝えたい、と感じてしまう。
音楽は極めて不思議な存在である。これはモノなのか。それとも瞬間にだけ立ち現れる儚さという非存在に近い情報なのか?
空間の振動現象なのだから物理的な存在である、とも言えるだろうけれどこの非可逆性をどう説明すればいいのだろう。音楽とは本来固定できなかった存在だと思うのだ。それがここに存在してしまっているこの不思議は。

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