「儲からないけど広がるんだよ」という一文を読んだことから広がっていった「肥沃な時間」に対する思考記録
「儲からないけど広がるんだよ」という現象は面白いのではないだろうか。
「昨日の続き –
「儲からないけど広がる」Web2.0」というエントリーを読んでいたらそんなことを思った。
「面白いことだと儲からなくてもやる」
というのが人のさがであろうし、それの行き着く先を見てみたいと思う。
お酒なんて直接的には儲かるというワードとはリンクしてないけれど全世界で膨大な数の人が膨大な量のアルコールを含む飲料を日々摂取している。
何故飲んでいるかといえば楽しいからだろう。
僕はロジックという言葉があまり好きではない。
ロジックを志向する意志の根本は感情の確保や保護だったりするわけで人は気持ちでしか動かないものだと思う。
とはいえロジックも使いようでは強力な武器になり、尋常ではない効率化を進める起爆剤になる場合もある。
何事も太極図の示すようにグルグルとまわっていく。
先日、友人との対話した際、ふとした言葉で相手の気持ちを害してしまった。
自分の安易さは反省すべきとして、地球上では膨大な数のこうしたすれ違いが生じているのだろう。
そのうちのいくつかは反復増幅され殺人や戦争というカタチに収斂する。それらは複雑性がつくりだす混沌の海に生じた「秩序の窓」
のようにもみえる。
これは意味としてのマイナス側の話である。ではプラス側に視点を転じるとどうだろう。
感動や歓びは予期せぬ情報が飛び込んでくることで発生するケースが多いように思う。
こうした状態の発生の起点には何があるのかを考えていくとそこには「心が開く」というような状態があるように思う。
忘我の感覚とも近いかもしれないが、笑ったり、泣いたり、ジーンとしたり、
グヮッっと盛り上がったりという感情の中心では自分という幕が曖昧になる。
そこにあったはずの固執が消えていく歓びといったらいいのだろうか。
感情がグワッっと隆起するその瞬間に自分という意識は薄れていく。これを僕は「存在の消滅」な感覚として10年前に論文にまとめた。
あの論文を書いたあの時といまとで問題意識や感覚がそれほど変わったとも思えない。
そういえば同じ研究室にウエマツ君という人がいた。彼は文学に傾倒していて、僕は文学それ自体にはあまり興味がなかった。
いつだったか、彼ともうひとりの友人が突然遊びに来た。で、何の勢いかウエマツ君は激昂して吼えていた。
僕はといえばそういうのがあまり得意ではない。激昂されるとそちらに引っ張られる。こちらもカっとなり「なんだコノヤロウ」
となりそうになる。実はこれが危ない。必要なのはこの場合、議論でありコミュニケートションである。感覚的なものいいになるが、
激昂している人々の意識の根本にあるのは「自己防衛」な感覚だと思う。
感情が動くのは自分の持つ核な部分が無防備になり危険にさらされる時である。
それを防衛しようとして人は感情を発露させる。
カップルをみていると、何でこの人たちはこんな些細なことにここまで本気になって激論しているのだろうか、と思うことがある。
しばらくみていると、彼らにとって大切なのは議論の内容ではないことに気づく。
一般的に人には心を安定した状態に向かわせたいという性向があり、そのリズムが一致する、
あるいはズレていてもうまくかみ合い調和すばパターンは安定する。しかし、
ぶつかり合うと些細な問題は反復増幅され議論の本質とは全く関係なく動物のケンカ状態みたいなアフォーダンスな反応の連載みたいになってしまう。
下記の映像みたいな感じである。
この間、湯川さんという時事通信の人のPodcastの番組を聴きながら走っていたら「脳業」という話があった。最初「農業」
だと思ったのでIT潮流という番組名からスゴイ飛躍があり、「エッ?!」と3秒くらい意味を取るまで脳が宇宙遊泳状態だったが、「脳業」
といわれて「なーんだ」と思った。
そこでいろいろ映像が閃いた。この思考を止めてはいけない、と直感し、iPodの停止ボタンを押した。
「農業」。
これは友人のやまけんの専門分野である。僕は全く詳しくない。種の植え方さえしらない。大根の作り方、
ネギがどうやってできているのか、知らないことだらけである。
その時、僕の脳裏をよぎったのは次ぎのような思考だった。
農業か。
細部については知らないが要は農業とは土と水の問題だろう。野菜それ自体はフェノタイプとしてどこで採れたものも同じ形状を持っている。
異なるのは味やエネルギーである。その違いをつくるのは土だ。土ということは土地であり、水であり、気候であり、様々な要素の相互作用だ。
肥沃な大地の有無が農作物の良し悪しを決める。大筋ではこの考えは正しいような気がする。この間、
やまけんの家でヤヴァイくらい美味しい豚をご馳走になった。この豚肉は近所のスーパーで売られているものとは全然違った。
その違いは豚という形状の差ではなく、豚を構成する成分のバランスの違いである。
では成分のバランスの違いはどこから生じたか。根本はその種の豚のDNAであったり、餌であったり、水であったり、環境であったり、
豚たちの健康状態であったりする。餌の違いは飼料となる作物の違いになり、作物の違いは土地の違いだ。
六本木の畑で採れた大根や米よりも阿蘇山の麓の米の方が美味しそうな気がする。根拠はないがそんな気がする。
そこに含まれている情報量が違うように思うのである。
と考えていくと人間という存在そのものも農作物みたいなもので肥沃な大地で栽培された場合とそうでない場合とで大きな違いが生じるのではないか、
という仮説が頭をよぎった。
ならば、農業なモデルで人間の能力を考えていくというのはどうだろう。
人にとっての肥沃な大地をつくることができれば人の世界はもっと豊かになるのではないだろうか。
そんなことを思った。
ここから先はかなり観念的な話になるがこの場合の肥沃な大地は物理的な場も含むが、僕が重要な要素だと思っているのが「時間」である。
「肥沃な時間」
という概念。この概念、フレームで捉え直すことが必要ではないかと。
場所は要素として大きいが肥沃な時間は場所の拘束を越えるのではないかと僕は思うのである。
コンテクストによってコンテンツや情報の意味はある程度影響を受ける。しかし、
その核に含まれている情報のDNAみたいなものが消えてしまうほどの影響ではない。面白いコンテンツはTVで観ても劇場でみても面白い、
という場合がある。(視聴する人間の側の状態もコンテクストとして考えるならばそこが問題の本質でもある。
どんなに美味しいご飯も怒りに満ちた感情では何の味もしない。不思議だがこれは事実だ。怒りは味覚を消す)
と考えると、場所もあるが、それ以上にどういう状態の自己でいるかということが「肥沃な時間」をつくる鍵になっているように思う。
また、「肥沃な時間」は孤立からは生じにくく、外部との関係性による傾向にある、というのが自分の考えである。
例えばコミュニケーションの出来によって人の気分は大きく変わる。理解された、という実感があるとき人は協調を感じ、
物事を捉えるアンテナや感覚がまろやかになる。
そう考えるとある程度の外部依存性があるわけで冒頭に書いた「自分の感情を他人に預けることは間違い」という部分がグラつく。
おそらくここも太極図の関係にあり、
他者とのコミュニケーションによって感情は反復増幅される。よって、
マイナス側にいきそうな時は自分の感情を他人に預けてはいけないが、協調に向かうならばその作用は利用すべき、という感じかな、と思う。
しかし、これにパターンを見つけるのは難しい。「肥沃な時間」の感覚は個々人で異なるのではないかと思うからだ。
なので簡単なのは自分がこれまで
「あの時間、素晴らしかったなあ」
と思える時間を書き出してみる、というようなことだろう。その中に自分なりの「肥沃な時間」をつくりだす手がかりがあるはずだ。
そして、ここからが本題なのだがそうした「肥沃な時間」のデータベースが全世界でリアルタイムに共有できるとしたらどうだろう。
そこには相互作用は生じ、感覚の生物学あるいは生態みたいなものが成立するんじゃなかろうか。
私はこんないいことがありました、みたいな体験を共有できたら、例えば単にそれを読むというだけでも影響は無ではない。
ヤクザ映画みたらノリが任侠になるのと一緒で、人は情報を受け取るとなんらかの影響を受ける。
チキショウと思っていてもうーんなんかいい感じ、と思うかもしれない。これが地球規模で言語を越えて連鎖する機構ができたら、
感覚にも地球規模で四季やら朝夕のようなリズムができるかもしれない。
それらは多世界的に物理的マップとは異なるパターンを描くんじゃないかなあ、と僕は思うのである。また、
時間の概念を取り込むと履歴ができて、場所とは異なる位置がでてくる。そういうのの総体が情報としての集団、
1万年後くらいの国家の替わりみたいなもの幼芽につながっているんじゃないかと思う。
僕の感覚だけれど、単純に1万年後とかに国とか通貨という概念がまだあるとは思えないのである。
現段階ではオプティマイズの為の有効な道具だと思うけれど通貨というものはかなり原始的な存在だと僕は思う。また、
情報が物理的に固定されている境界が通貨だと思う。
1万年後とかは確実に石油も枯渇して無くなっている。その時代にいまのカタチで通貨があるとは思えないのである。
かといってお札かという話でもないのだが。
とつらつらと思索していたら朝である。
昨夜は午前2時に目覚めてしまった。
築地で朝ご飯でも食べてこよう。
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