中嶋さんのブログにあった「網意識・網心」に心ひかれた

ゴルフダイジェストオンラインの創業者であった玉置氏の「“志は起業を呼ぶ” (玉置 浩伸)」を読んだ。その直前まで「“Google誕生 —ガレージで生まれたサーチ・モンスター” (デビッド ヴァイス, マーク マルシード)」と「“「個」を見つめるダイアローグ” (村上 龍, 伊藤 穰一)」を読んでいたのだが3冊がスパイラルを描いているような印象を受けた。Google本、ジョーイ本、GDO本、3冊を連続して読むのと、時期をバラバラに読むのとでは受け取る意味や印象はだいぶ変わっていたと思う。

どちらもネットを使ったビジネスだがGoogleとGDOでは随分雰囲気が違う。上場を境に玉置氏はGDOを去る。しかし勇退ではなかったとのことである。それが驚きだった。

著書を読むとエキサイティングでダイナミックでセレンディピティな時間もあったということがわかる。が、それを永続させることは難しく容易に人と人の関係は変質し、離散へとつながる場合もある。Google社のすごさはあの規模でかろうじてバランスを保っていることだろう。

Google本で一番印象的だったのは(いくつかクライマックスがあるのだが)意外にもヨーロッパのAOLとの提携の下りであった。ヨーロッパのAOLはYahoo!とのアライアンスを決定しており、合意に達していた。ところがGoogleガイの二人は一瞬の意思決定で飛行機の進路を変え(二人は自家用ジェットで移動していた)ロンドンに向かい、直接交渉にあたり、AOLとYahoo!との契約を白紙に戻したうえで、双方が納得できる形で(AOL側がびっくりするような好条件で、しかも彼らの個人資産をつかった交渉で)契約を結ぶという離れ業をスポーツでも楽しむかのようにやってのけた。この場面が記憶にやきついている。

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明け方、午前5時過ぎ。

メールをチェックし、Safari(Macの標準ウェブブラウザ)を立ち上げるとブックマークバーに登録してあるサイトのRSSの更新件数が表示されていた。すると左から5番目にある論壇系というフォルダに(1)という表示があった。みてみると中嶋さんのブログであった。ブラウザには「「私」の範囲」と題されたエントリーが表示されていた。

中嶋さんのブログが論壇系のフォルダに入っているのは彼が鈴木健君の友人だという認識があったからだろう。そういえば中嶋さんとは健君と彼がNTTの助力を得て実施したとあるイベントの時に一度お会いしたのだがブログを読んでいたせいか初めて会うという感じがしなかったのを覚えている。

話を中嶋さんのエントリーに戻そう。

「私」の範囲」の後半に下記のような記述がある。

神:サーバー集中型:都市人口1万人まで

自意識:ピア分散型:都市人口1000万人まで

??:ハイブリッド型:都市人口10億人まで

というような進化の形態があり得るのではないか。

ひとつの都市に10億人が同時に住むためには、??の発明が必要なのではないか。

??を生み出すことができるかもしれない基本技術は、

人間が身につけ、多人数とリアルタイムな通信をし続けることができる物理デバイスかもしれないし、

あるいは、都市において徹底的にプライバシーを捨てていった先にある何かかもしれない。

はたまた、視覚をコンピューターによって大幅に強化するだけで実現されるのかもしれない。

ネットがもたらす匿名性と、一人の人間が複数のアイデンティティをもつことは、

おそらく関係が深いだろう。幼いときからそういった匿名/複数人格の誰かと多くつきあうことは、

おそらく変化の地盤になるだろう。

いずれにせよ、web2.0のずっと先の、さらにもっと先のことだが、

それでもweb2.0とは関係しあっているはずだ。

そしてそれは100年先ではなく、意外と50年ぐらいかもしれない。

??をあらわす日本語を無理やり考えてみるならば、「網意識」あるいは「網心」

というようなものなのだろうか。。

ここにでてくる「網意識」「網心」という言葉に僕は強くひきつけられた。中嶋さんがイメージするそれとその言葉によって自分が想起したイメージは異なるものかもしれないが共通する何かもそこにはあるように思う。

僕が「網心」という言葉に強く反応したのは理由がある。

人は利害がぶつかると感情的になる。

自分の中にある何かを守りたいという本能が目を覚ます。

しかし、守る為に要する感情のエネルギーは守ることで得られるエネルギーよりも大きくなりがちである。ここに生じたズレが人にダメージを与えていく。世界の見え方、食事の味、音楽、同じ情報を得たときに取りうる反応、それらすべてに影響を与える。コミュニケーションはうまくいけば人に悦びを与えるがうまくいかないときは破壊的なまでのダメージへと発展しかねない遺恨を残す。

時に言葉とは強力である。

また怖い存在でもある。

コミュニケーションはライブな存在なのだ。

チャンネルが閉じられた後もコミュニケーションの残滓は意識を彷徨い続ける。こういうとき、人間とは記憶によって生きる生物なのだと実感する。記憶を制御できれば感情とももっと上手につきあうことができるのだろう。

「網心」とはそうした力を持つのではないかと思う。

人は自分の感情を自分だけで処理することができない。

生命の根本的なレイヤーでコミュニケーションを必要とする。

のではないかと僕は思う。

「テレパシックに相手の意識を感じる」みたいなスピリチュアルなイメージではなく、量子な世界で垣間見える「キュービタル」な現象のような、より合理的で説明が不可能なコミュニケーションがありうると僕は考える。

コミュニケーションによって感覚がドライブしたり、ライブなダイナミズムを体感することは世界を面白くすると思う。

「網心」という言葉をみたとき、そういうことがあたりまえになっているコミュニケーションの状態、そしてそのインフラの総称というイメージが浮かんだのであった。

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