Live Forever
さっきの妙な感じにひきづられたのか唐突に「live forever」を最初の10分だけ観て中断していたことを思い出した。
あとテクノの歴史、みたいな映画も持っていたのを思い出した。
DVDの山の中から二枚を探した。
ドッグタウンも面白かったがLive foreverもつらつらと観ていたらカキンときた。
そうだ「あれが好き」とか「これが好き」とか「あれはいまいち好きじゃない」
というのを自分の感覚で言えない環境に慣れるとわけがわからなくなって判断にメディアのバイアスが入ってきて、過度に消費的になりがちだ。
作品を自分の感覚で感じるんではなく頭の側で解釈して強引に意味づけしてる感じがする。
で、それは音楽とか映像とか本(テキスト)での話なんだが、
そうしたフェノタイプはよりメタな部分で政治とか言語とかそのあたりから発生している。
Live Foreverに限らず、
商品的でない音楽や映画やテキストをつくる人が動画で話をしているのをみるとそのほんとんどが思想と政治についての話だったりする。
これは万国共通な印象をうける。
でだ、僕はこれがネットでもアリだと思うのである。
ここがないから企業がやるサービスなり、サイトなりは無害でつまらないのだ。
ブロブプロモーション、ブログマーケティングはクソとは言わないが何も感じない。ご苦労様です。で終わりだ。
日本の豆腐屋のサイトの方がよっぽどメッセージがある。
好きとか嫌いはガンガンに言うベキだと思う。
それがないから前提が消えてしまい、コミュニケーションが浅くなり、、議論が成立しなくなる。
ここを変えていくとか、マシなコミュニケーション環境をつくる、とかそういうことにリソースを向けてみようと思った。
メッセージとか思想とかイメージとかビジョンにはパワーがある。
そうした情報に触れると人は相対的に自分を定位し
「あれ、オレってこうなんだ」
とコミュニケーションの起点、意志が発生がするんだと思う。
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