日々思うこと
これといった意味はないのだが。
人はまあいまのままいけば100年後には今の世界に生存している人のほとんどは死んでしまっていなくなる。であるのだがまあ電車に乗れば押したり押さないでケンカしてる人もいるし、人混みで3秒くらい前に進むのが遅れたからといって「なんなのヨ」と感情をブチまけてる女の人もいる。
不思議である。
この人たちは何をしているのだろうか。本当に素朴にそう思う。日々思う。
あの人達に限らず、自分を含め、ほぼ例外なく98%くらいの人は自分の世界でものをみて生活しており、自分の利害を中心に生きている。どーでもいい世間体だとか親やら親戚やらの見栄やらホントにどーでもいいことに相も変わらず人は引っ張られているものだ。それをバカとは思わない。が、その意味はわからない時が多い。
カッコつける、あるいは、つくろうことの意味が本当にわからない。どこをどうやったところで本質は変質しない。出来の悪い作品、大したことのない作品、いろいろあるけれど根本はその人の本質の問題である。
よくよく考えていくと社会全体の合理性を高めることが個人の利益を最大化するはずなのだがおよそ人のふるまいはそれとはかけはなれている。車に乗っていれば合流のたびに感情のぶつけあいを見るハメになる。これもまた意味がわからない。気持ちは理解できるが合理性がない。
恋愛も不思議である。高校生、中学生と話していても別れたとか別れないという話が出てくる。
別れるという意味がよくわからない。
そもそもが不変はないわけで別れるという概念はどこからきているのだろう。あらゆるものが不変であるかのような錯覚がベーシックな感覚として脳にのあるのだろうか。
死別するわけでないのであれば今生に生きているわけで別れるも別れないも関係性の変化に過ぎない。
感情的には外部記憶が失われる切なさはあるだろうけれどそれらの感覚も記憶のメカニズムによって消えていく。(まあ人の脳はそれなりによくできている)
間違いなく消えていく。
これは断言できる。
それが故に不思議だ。
この生がゲームのようなものだと仮定して生きてみたら、あるいはこの生が映画みたいなものだと仮定して、この生を脱構築して眺めてみれば自分の日々や日常は恐ろしく非効率で滑稽なものに見えてこないだろうか。
あるべき姿、最適な解、それらはかなり身近で簡単なのだ。
しかし個々人の脳や目ではそこに気づけない。そのためそれぞれに生じた小さなズレは反復増幅され、非効率のスパイラルをつくる。それが故にウェブみたいなものが外部装置として発生してきた、という気もする。
いまだに人の世界のコミュニケーションは分断されたまま回復することもなく戦略もなく宙ぶらりんな状態である。ちょっとでいいから本質で話したり、見栄をなくしたコミュニケートの経験ができたり、制約やら拘束やらから5分くらいでいいから(1日のうちで)放たれる時間を持つことが実現できたら見かけは一緒でも感じられる世界は別モノになるのだろうな。
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この投稿へのコメント
はじめまして慶応のOGです。
こんな時代になるとは想像だにしなかった。
何しろ子育てに忙しく気がついたら世の中進化してました。
湘南キャンパスも携帯もITもWebもなくアナクロな時代でした。
ひょんなことからこのblogを拝見して以来楽しく拝読させていただいてます。とても興味深く読んでいます。コミュニケーションや言語についての考察がなるほどと頷かされます。もうグローバルな時代なんですね。面白いです。これからも色々なコンテンツを紹介して下さいね。
まさしく日々取り巻く社会環境の中で、すっかり慣れてしまった。
取り繕うことが多くなった体面や体裁や見栄。
早く早くと生き急いでるようにしか見えない人々。
What is important is not logic, but how to live.
知り合いのヨーロッパの富豪が言ってました。
人生は理屈じゃなくて何をどうやって食べて生きていくか。
こんにちは!
コメントありがとうございます!!
上記の言葉で思い出したことがあります。
卒業時、恩師の故・江藤淳先生から
「加賀谷君、とにかく生き残れ。何をやってもいい、ただ生き残れ」
という言葉をいただきました。とにかく「生き残る」ことが大切だ、と。
以来、今日までその言葉を時折思い出します。