ネットの可能性はつながりのワープ感覚か
先日「血と暴力の国 」についての考察をアップした。
・「血と暴力の国(No Country for old men)/コーマック・マッカーシー」 超えられない言語の壁を感じた一作であった
・Youtube動画で解説「血と暴力の国(No Country for old men)/コーマック・マッカーシー」について
リンク元を辿っていくと下記のエントリーを見つけた。
『血と暴力の国』、ビデオブログによるレビュー
http://blog.so-net.ne.jp/kingdom-by-the-sea/2007-10-14
最初、どんな人が書いているのかわからずにエントリーを読んだ。
しばらく読んでみた。
プロの書き手の文章にしか思えない。
プロの書き手としてやっていない人間にはこの種の文章は書けない。
しかしプロフィールには何も書かれていない。
どうにも気になったので過去のエントリーに遡って読み進めてみた。
すると
これも『血と暴力の国』の訳者あとがきから省いたことですが、アメリカでは、Anton Chigurh (アントン・シュガー)を ant on sugar (アント・オン・シュガー=砂糖にたかる蟻)と解読する向きもあるんですね。
という一文を見つけた。
「ん?あとがきから省いたって、え、この人があの後書きを書いてるの?」
ようやく合点がいった。
僕の考察についてエントリーを書かれたのは「血と暴力の国」の翻訳者である黒原敏行氏であった。
まさかダイレクトに僕の映像が翻訳者の方に伝わるとは思いもよらなかっただけにこれには驚かされた。
と同時にうれしさもあり、どうにかコメント、メッセージを送ろうとした。
しかし黒原氏のブログはコメント、トラックバック共にオフになっていた。
それならばメッセージを送ろうと思ったのだが残念なことにメッセージの宛先を見つけることはできなかった。
それでこのエントリーを書いている。
数ヶ月前にwikipediaのジミー・ウェルズ氏の話をきく機会があった。
wikipediaの執筆に際して発信元を偽装するのは日本だけだ、というようなことを言っていた。
これに対して小飼氏は当時話題になっていた日興コーディアルグループの不正事件とライブドア事件の主要容疑者の名前の認知度の違いを示し、日本では名前が知れることのメリットよりもはるかにデメリットが大きいため匿名性への過度な執着が発生するのだ、というコメントを述べていた。
確かに、と思う節がある。
僕は実名も顔も動画もネットに露出しているが幸いなことにメディアには露出していないため、不必要なバッシングに曝されることなく今に至っている。
何でこんな話をしているかといえば黒原氏にコメントなりメッセージなりを伝えられなかったことに大きなストレスを感じたからである。僕からメッセージが届いたところで必ずしも嬉しいわけではないとは思うが、同じ作品について何らかの思いを交換できたならば、それは伝わって然るべき種類の情報なのではないだろうか。
10年前はスパムの問題は今日ほど悲惨ではなかった。
また個々人がわりとおおらかにオンラインでやりとりできていたように思う。
あるいは、こういうことを書くのはすでに時代遅れなのだろうか?
しかしお隣の韓国ではサイワールドで携帯の番号すら公開されている。
このエントリーでフレーミングの問題にまで踏み込むのはどうかとも思うのでこの問題については機会を改めたい。
書こうと思っていたのは下記の問題についてである。
どこにその境界線があるかを明示することは難しいがプロの文章には独特の気配がある。
売れるか売れないか。
ウケるかウケないかとは別の問題である。
不思議だが書き手の素養の違いは簡単な文章にも表れる。
これが何なのか。
そして何がそれをつくりだしているのか。
僕の興味はそこにあるのだがいまだわからない。
テキスト自体ではなくテキストの後ろ側にそれらの情報はあらわれる。
テキストが読者の脳に接触することで意味の解釈と記憶のリコールが行われ、その相互作用によってつくりだされる情報感覚なのだがこれをもう一度、テキストという言語表現に変換してアウトプットすることは現行ではかなり困難である。
「感動」を伝えるために「感動した」といっても伝わりようはなく、この種の相互作用を伴う「つながり」を言語によって示すには全く別の「つながり」を用いる他に方法がない。
こうしたところに僕の興味の中心はある。
このままでは全くビジネスにはつながらなそうだがBCIの発展においてはここがポイントになると考えている。
“血と暴力の国 (扶桑社ミステリー マ 27-1)” (コーマック・マッカーシー)
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