映画の一日 映像についての備忘録メモ
久しぶりに映画を観た。
観たのは下記の3本。
これまであまりメモなど書いてこなかったのだがこの間、戸田奈津子女史が
「観た映画について1行でもいいから全てメモを書いておけばよかったと後悔している」
といっていたのを思い出したので備忘録としてメモしておくことにした。
1本目は
“スナッチ デラックス・コレクターズ・エディション” (ガイ・リッチー)
「スナッチ」は以前に観た記憶があったのだが細部を覚えていなかった。
途中までみておぼろげに思い出した。
複数のストーリーがリンクしていくマルチスレッドなつくりはガイ・リッチーの映画の特徴である。
同じくガイリッチーの
“ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ” (ガイ・リッチー)
でもマルチスレッドな構成は同様である。
悔しいかな、シャレている。
この空気感には唸らされる。あ
両方とも製作は「白鳥の湖」で有名なマシュー・ボーン。
マシュー・ボーンのステージは一度だけみたことがある。
会場はほぼ女性。
周囲を見回すと男の姿は皆無。
それもそのはずマシュー・ボーンの「白鳥の湖」は出演者が全て男性ダンサーなのだ。
さながら「黒鳥の湖」であった。
が、ステージは驚くべきダイナミズムの塊で非常に楽しめた。
2本目はばるぼら君から「いま上映中の映画でなかなかいいって話ですよ」と教えられてからはや半年以上が経過した
“恋愛睡眠のすすめ スペシャル・エディション” (ミシェル・ゴンドリー)
他にも何人かの友人から「頭おかしくて最高ですよ」と言われていた。
ようやく視聴して意味がわかった。
なるほどキレイにつくるものだ。
恋愛映画であった。
それにしてもどこのドラマも恐ろしく男性がなよっとしている。
ネットではマッチョがどうこうという議論が熱を帯びていたが「弱い」「強い」という比較に意味などあるのだろうか?
「好き」「嫌い」は直感的に「わかる」けれど、強かろうと弱かろうとどうでもいいだろ、余計なお世話だ。
映画の方は恋愛部分の描き方が
に似ているなあ、と感じた。
ロジックということではなく印象がという話だが映像と女性の描き方、主人公の優しい感じ等、空気感が「マネキン」に似ていた。主人公と女性のキャラがそう思わせたのだろう。
まあ、マネキンが出たら下記も忘れてはいけない。
“カイロの紫のバラ” (ウディ・アレン)
映画の持つモードは随分違うが虚像が実像に入れ替わる「異化」の手法がエンターテイメントとして使われている。
ウディ・アレンだと「異化」の事例で最も印象的なのは下記、
“アニー・ホール” (ウディ・アレン)
の序盤でマクルーハンが話しだすシーンだ。
映画評は専門外なので論じるのは他者にまかせて3本目。
ようやく視聴。
ストーリーもよくわかっていないで見始めたが佐藤江梨子が魅せまくる。
好演である。
キャラを持っている女優の強みとはこういうことだろう。
演技力が100倍すごくても吉永小百合ではこうは映像化できない。
佐藤江梨子万歳。
素晴らしかった。
しかしもう10年もすれば映画を視聴するという概念が変化する。
視聴毎に出演者を視聴者が選択し、個人的にその場限りの再現性のない舞台として楽しむようになるだろう。
これによって映画最大のウィークポイントが解決される。
同じ映画を幾度でも楽しむことが可能になる。
コンテンツ視聴環境が現行の受動的なものから大きく様変わりすることは間違いない。
それにともない必要とされる「人側」の才能の種類は変化する。
想像するだけで面白すぎて鼻血がでそうだ。
詳細はなんなりとおたずねいただきたい。
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