[書評] 火車/宮部みゆき

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■宮部みゆきの話

「火車」を最初に手にとったのはずいぶん前のことである。
その時は宮部みゆきが誰か知らなかったし、小説の内容にもそれほど興味をそそられなかった。

それから10年くらいしてひょんなことから「火車」の表紙の絵を描かれた藤田新策氏と知り合い、幾度か飲みにいった。藤田氏は大沢在昌や宮部みゆき、スティーブン・キングなど著名な作家の表紙を手がける作家である。

宮部みゆきについてはじめてリアルにイメージができたのは藤田氏から宮部みゆきについて話をきいた時だった。藤田氏の話から浮かび上がってきた宮部みゆき像はまさに「作家」であった。

村上春樹は「作家としてやっていくには身体が重要である」との見解に達し、書く身体をつくることを目的としてマラソンをはじめた。作家とはそうした種族なのだ。

藤田氏の話から想起される宮部みゆき像もまさに作家のそれであった。
宮部みゆきは異様な数のRPGをプレイしていることでも有名である。
それらは遊びというよりも作家の業としてやっているのだ、と藤田氏は言っていた。

■火車の話

小説「火車」は様々なメディアで絶賛されている小説である。僕は宮部みゆきの作品は苦手で「理由」は読むのがつらく、途中で挫折した。一冊だけ読み通したのは「レベル7」という小説なのだが印象に残っていない。思ったよりもスローなテンポだったように記憶している。

「火車」はどうか?

この作品もテンポはゆるやかである。

■火車のプロット

火車のプロットはおよそ次の通りである。

撃たれて休職中の刑事の親戚の青年の婚約者が突然失踪し、刑事が彼女を探す物語。
彼女の痕跡を探すうちに彼女がクレジットカード破産の過去を持ち、戸籍上別人になりすましていたことがわかる。

ポイント

面白さのポイントとしては

・刑事は彼女を見つけることができるのか。
・どのような理由で彼女は他人になりすまさなければならなかったのか。
・クレジットカード経済(当時は問題になりつつあった)というテーマ
・市井の人々の生活の描写

などがあげられる。しかし、それ以上に読後に効いてくるのが「シーン」の映像性である。

■火車は面白いのか?

「火車」の面白さについてだが、読後数時間して振り返ってみるとじんわりと響いてくる質感がある。ストーリーとしての引き込みの強さはそれほどでもない。しかし、市井の人々の生活感ある描写は秀逸である。アクションによるサスペンス的要素は少ないがじんわりと響いてくるキャラクターの心情はきわめて映像的だ。

私見だが「火車」に関しては小説という表現形態よりも映像の方がしっくりくる。
例えばメインのキャラである失踪した女性(喬子) が宇都宮の小学校を訪れたことを第三者が語るシーンがある。
このシーンはすべて伝聞で描かれているのだがそこから立ち上がるイメージは妙にリアルで文字を追いながら、自分の脳内では小学校にたたずむ寂しげとも悲しげともとれる女性の映像が再生されていた。(女優の顔までイメージできた)

読んでいる間は全くわからなかったが読後にじわりじわりと効いてくるこの種の質感は「火車」の持つ抽象性によるものだと自分は考える。例えば赤川次郎の小説だとどの人が読んでも同じように面白さを再現できるように抽象性をチューニングしてある。よって、場面転換とエピソード、ストーリーの構成によって面白さの中核がつくられる。

「火車」の場合、こうしたアクションによるシナリオ的な展開の面白さは小さい。だから読んでいる間はいまいち響いてこない。しかし、読後に各シーンが効いてくる。キャラの表情が脳内で再現され、このキャラはこの人だろうな、という俳優の顔が浮かんでくるのである。今振り返ると不思議な面白さである。

■総論 火車はエンターテイメント小説ではない

総論として「火車」は不思議な小説であった。サスペンス小説、推理小説として読むならばそれほどの面白さは感じなかった。けれど「独自な小説」として読むならばそこには「映像と絡み合う不思議な面白さ」があった。これも文章でしか表現できない面白さなのだろう。

普通の書評にあるように☆をつけたり、点数をつけようかとも思ったがきわめて点数化が難しい小説である。例えば「北壁の死闘」などは点数がつけやすく。完成度からいえば90点を超える。素晴らしいエンターテイメント小説である。

そう自分にとって「火車」はエンターテイメント小説ではないのである。
それが点数付けができない理由だ。

「火車」はエンターテイメント小説というよりもより広い意味での「小説」だったと僕は思う。


火車 (新潮文庫)

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