ワイルド・バレット(でも原題は”Running Scared”)
ワイルドバレッドをみていたら突然、意味の固まりのような空気に包まれた。
何だこれは?
と考えながらも左脳は必至にストーリーと映像を咀嚼しようと躍起になる。
しかし右脳はいっこうに夢から覚める気配がない。
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能力の優劣は存在する。
優秀な人とそうでない人ではパフォーマンスにおいて大きな差異が生じる。
しかし、ある程度の優秀さのライン(知識の集積と経験DBによって到達可能なレベル)を越えると差異は個体間の違い、ではなく属するパラダイムに依存する。成果云々は意味を成さず、時流との相性が価値の振り出しもとになる。
こういった思考の固まりが「ワイルド・バレット」と並行して脳内にイメージされる。
映像を伴わないのでイメージとは違うのだが言葉であらわすとすればイメージに包まれる感覚である。
ロシア人の少年もアンダーカバーのポール・ウォーカーも疾走していて、それらは観ている自分と遠くでエンタングルしている。時間軸も意味もズレているが確かにそこにエンタングルを感じた。
こういう体験が時々ある。
泣くようなシーンでもないのに突然、感極まった感じになったり、感覚がほどける瞬間が唐突にやってくる。
それらは不可思議な現象などではなく時間を超えたエンタングルなのだと思う。
未来なのか過去なのかは不明だがある瞬間に何らかの情報がキーとして発現し、それが認知を飛び越えて世界の右回りと左回りをつくりだす。
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それにしてもロシア人の少年の笑顔は素敵であった。
あの笑顔に意味を持たせたのは劇中の9割をしめる彼の無表情である。
それが笑顔に意味を持たせ、地と図の関係をつくりだしている