余裕の日本

先日、Twitterで「日本は信号の国だなー、っていつも思う。街中だけじゃなくて組織やらどこでも一緒。なので安全確認したうえで信号無視すると非常に快適」と書いたらいろいろな反響があった。

上記は読んでもらえばわかると思うが「比喩」である。
「路上の信号を無視しよう」という呼びかけではない。

日本で物事を進めようとすると様々な場面でブレーキがかかる。
これが自分には路上に存在する無数の「信号」とダブって見えたのである。

こうした「信号」は日常の様々な場面で出現する。

自分にとって些細な事象やルールが他者にとっては重要な「信号」であったりする場合がある。
※この場合の「信号」とは「信号機」の事である。

そうした「信号」に出くわすたびに「それは真に重要な問題なのだろうか」と疑問を抱く。
無駄な信号なら存在そのものを疑問視すべきである。

様々な思想を持つ人々がある程度のルールの枠の中でうまくやっていくためには「信号」を守ることはある程度重要であろう。

けれどそれに縛られることでダイナミズムが削がれたり、最重要課題の解決へのリソース配分が損なわれることは個人だけでなく世界にとって大きな損失であり、個々人の「ダイナミズム」を高めることがこの世界を最適化する唯一の方法だと自分は考えている。
(この場合のダイナミズムとはアグレッシブさを意味するわけではない。自分があるべき自分であることを自覚しながら集中している状態を指す)

例えば「ノっている」とか「機嫌が悪い」とか「いまいち」とか「やる気がない」とかいろいろな状態があると思うが自分がいまどんな状態にあるのか、を把握することができれば対応策を実行することはそれほど難しくはない。

けれど、実際にはそううまくはいかず他者への依存や環境の同調圧力などによって「自分」をねじ曲げてしまう。
それはいまの自分を守るには有効な施策だが「ダイナミズム」は失われていく。

こうしたジレンマの中で自分がすり減っていくとそのエネルギーは増幅、結晶化され些細な亀裂から破壊や暴力や殺意へと転換される。
これが社会レベルで閾値を超えると混乱が生じる。(一方でダイナミズムは高まるが)

破壊とダイナミズムは表裏一体の関係にあり、何かが生まれる時、何かが消えていく。

20年近く前のことだが古代の生物が環境の変化に適応できず、自己の優位性(例えば牙や身体)を拡張することで競争優位を保とうとし、それが故に死滅していったという話を現代のメディア企業に例えてマイケル・クライトンが講演で話していた。

時の推移によってとるべき施策は変化する。

破壊によるルールのリセットは時に小気味よくもあるがそれは本当に有効なのだろうか?
もっと違う方法があるのではないだろうか。

例えば異端なる試みをもって思考の枠そのものを「歪める」。
言い換えるならば「欺く」こともまた有効なのではないかと。

生活をよりよくするために策定されたルールが人を不幸せにしはじめたら、ルールそのものも見直されるべきだ。
しかし、それが容易ではないケースの方が多い。(ルールに準じるべきと考える側にとってルールの改変は不利に働くから)

もしルールが時流とあっていないのであれば、ルールに固執し、正面からアタックして摩擦、疲弊するよりも「欺き」によって双方を「歪め」、理解不能状態に陥れた上でラップする「詭弁」の方が1000倍有益だと自分は考える。

時代によって思想がころころ変わる人間という種のやっていることなのだから、万事、適当を許容するくらいでちょうどいい。
毎日、敵意と殺意じゃ政治もよくならないし、組織も社会も疲弊して疲れてしまう。

ルールは死守するためにつくられたわけではなく、その時々で社会を円滑に運営するためにつくられた決め事だ。

というわけで時々、植木等の映画でも観て「ま、いっか」という気持ちになることをオススメする。

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