情報と因果の切れ目
あるサービスを使ってみて深く考えさせられた。
写真に音をつけるというのは昔からいろんなところで提案され時々実装されてきたサービスだと思う。
スマートフォンの時代になって同種のサービスが再びリリースされているのをみた。
サンプルを幾つか視聴した。
そこには驚きが全くなかった。
これは良いことなのか悪いことなのか。
おそらくサービス自体はとんでもなく深く考えられ練り上げられたものだと思う。
しかし体験としての驚きがまったく感じられないのである。
これは何を意味しているのだろう?
思想や思考法が正しくともそれが必ずしも正しい結果につながるわけではない、ということなのだろうか。
ことはそう単純ではなかろう。
どこかはわからないがある部分までは明らかに正しいのだ。
しかし何かがズレている。
それがズレている限り人には響かない。
あるいは人か技術が変化するまでは響かない、というケースもある。
どんなものにもすべての関係性が合致しバランスするタイミングやポイントは存在する。
しかしながらそのどれにも法則性はない。
脳に構造として組み込まれた「因果律」がそれを求めるのは理解できる。
だが、現実はその外にあるというのが自分の実感である。
ではどうすれば?
それこそ世界が探し求める情報のひとつであろう。