ケータイの次のメディア

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と書くとメディア論というか議論の為の議論になりがちだが僕が書いておきたいのは新しいデバイスとかメディア論な話ではない。

仕事の都合で2年前から毎週渋谷に通っている。
最初の頃はやたらと疲れていたが最近はなれてしまった。
今日はこの時間帯にしては人が多いな、とか、ほー、今日は逆側に人が流れているな、など微妙な変化が感じられるようになった。

毎度思うが本当にいろいろな人がいるものである。
といっても、皮肉をかますつもりはない。
世紀末な世界という印象もない。
どちらかというと「ファイナルファンタジー」の世界を歩いているような感覚である。

文化的な渋谷論は他の人にまかせるとしてあの街を歩いていると街自体が広告というかメディアな印象を受ける。
情報化とも違うんだが空っぽの箱に絵が動いてる感じといったらいいのかな。リアルなモノによって構成されているけれどカタチを変えたTVのような感じがするのである。

センター街なんかは店の外を歩いているのに居酒屋の中を歩いているような錯覚に陥る。
この感じ、体力と気力がある時は「面白いなあ」と素直に感じることができる。
疲れていると「馬鹿野郎」という気持ちになってしまうのだけれど。

表題に「ケータイの次のメディア」と書いたけれど、大それたことではなくて、ケータイはパーソナルなんだけれどなんつったらいいかな、同じように街も細かくメディアとしてモニタリングできさえすれば異様にマッチングの効いた情報空間メディアとして機能するんじゃないかなあ、と思ったのである。

銀座の街だからといっていつもの銀座なモードがベストフィットしているというわけではなく、細かくみていけば情報の最適化が施せるシーンはたくさんある。リアルタイムに街をモニタリングして、そこに情報最適化をほどこせば(うまくいけばの話だけれど)そこに(アドホックに)集った人の能力、あるいは感性、感じ方、ドライブ感を最大化させることができるんじゃないかと思うのである。

松岡正剛さんの言葉をまねて言うと、リアルな構造の上に時間軸を加えたメタな「ゲシュタルト」が描けるんじゃないかと。
そういうデザインを施した街ってこれまでないのだけど、憂鬱の先端と言われれ久しい東京ならそれが機能するような気がするのである。

人間の能力が最大化する街のデザインはあり得ると僕は思っている。
自律分散した雑多な個性と感性がコヒーレントな全体を描きうる「パターン」を誘発する方法はある、と漠然と感じるのである。
方法はあんまり難しくなくて、メッシュネットな感じで感性が情報にのってフワっと結晶化し、また散っていくみたいなイメージである。これが頻発する環境は実現可能だと思う。おそらく時流にのったトップ企業の最盛期の最高のポイントでは時空間を越えて情報空間で組織はそういう振る舞いをしているはずなのである。気づかないけどね。

いまやっている仕事を通じて情報社会に働きかけるきっかけをつくった後は、自分はこの分野に残りの全部をつっこんでいこうと思うのである。

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