ネットネイティブな感覚と最適化される世界
昨夜、オフィスからの帰り大江戸線にのったら青山で長い間停車したまま電車が動かない。
何事かと思ったら隣の車両で20代の若者が延々と口論&立ち回りを演じていた。
坊主頭でじゃっかん太めの男性はゴツさも満点である。
推測するに彼が連れの女性にガツンと一言いったか小突いたかで女性が号泣しはじめ、それを注意した男性にひとしきり絡んでいる、と僕には見えた。あるいは絡まれている男性が女性を注意したことで女性が泣き、それを責め立てていたのかもしれない。
隣の車両なのであくまで推測であるが。
それを見た別な女性が異変を感じ、駅員に通報、駅員による現状確認の為、停車が続いた次第である。
音が聞こえなかったので殺伐さ更に倍な印象であったが遠くからでも立ち回りの熱気が伝わってきてしまい、胸一杯な感じであった。繰り返しになるがこういうウェットな感じが嫌いだ。面白いと言えば面白いのだが脳がそっちに引っ張られ、しばらくそのモードが脳に残り、パフォーマンスが低下させられるのが嫌なのである。ようはリーズナブルさ(合理性)が失われるのが嫌なのだろう。
不安のない世界がいいとは言わないがリーズナブルでない精神エネルギーの消費はこの世界にとって無駄だと思う。情報の本質はそこにはない。感情の高ぶりによる精神の位置エネルギーの高まりは興味深い現象だが情報伝達のロスが大きい。コミュニケーションを経済行為として考えるならばボラティリティがでかすぎる。世界はその先に向かっているように思う。ロスがなく尚かつ情報エネルギー値の高い行動、存在方法があると自分は考える。表現やアイデアは合理性の向こう側からきているように考えがちだがアイデアも表現も情報である。情報であるからには情報の世界の法則があてはまる。空から生じるように見えるのはWindows of orderが人のセンシングのスケールを越えた部分で働いているからだと思う。
だから面白いとも言えるのだがウェットを発端とした情報は爆発力を持つが裏腹に時間のテコ効果があらわれづらい。
情報の本質として僕がイメージするのは大きな車輪である。
最初、車輪を回すにはとてつもない力がいる。ちょっとづつしか回らない。
けれど、一度回り出し、加速しだすと今度はちょっとの力でどこまでも高速で力強く回り続ける。
僕が好むのはこの種のモデルである。
強烈に意識に粘る映画を観る時の感覚も上記の車輪のイメージに近いように思う。
最初は脳が映画の世界になじむのに時間がかかる。
だからはじめのうちはあまり面白くない。
けれど一度その世界が脳内に構築されてしまうと今度は時間の感覚が消えはじめる。
映画自体はノンインタラクティブなのだが「観る」側の脳の能動的な働きかけが発現することで深く深く脳に粘りはじめる。
いい映画はだいたいそんな風にできているように思う。
この所、働き方や仕事の仕方について考察していて、ネットネイティブな働き方、仕事の仕方に思いを巡らせている。
ウェットなマネジメントとは真逆な脳のドライブ感をベースとした自律した個々人の脳力の自己組織化による非管理なガバナンスとマネジメント。
これを実現するような組織論、仕事のカタチができないかと考えている。
この世界が最適化へと向かう過程でそれは実現されていくだろうけれどいまも気配くらいは感じられる。
現状の会社システムや社会システムはコミュニケーションロスを人間のウェットな機能で収拾することをベースになりたっている。しかし、コミュニケーションロスをゼロに近づけていくことで成立する新しい仕事や組織や社会のカタチもあるんじゃないかと思う。
その気配は情報の世界にあらわれつつあるような気がするのだ。
それが自分が感じるこの世界の可能性である。
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