「生かされて。」イキュレー・イリバギザ


“生かされて。” (イマキュレー・イリバギザ, スティーヴ・アーウィン)

ルワンダという国の名前を目にしたのは藤原ヒロシのブログだった。
日本ではまだ公開されていなかった映画「ホテル・ルワンダ」について書いていた。

以降、いくつかアフリカを舞台とした映画が公開された。
「ナイロビの蜂」「ブラッド・ダイアモンド」も舞台はアフリカである。
この2作は映画としてものすごくよく出来ている。
特に「ブラッド・ダイアモンド」のレオナルド・ディカプリオは好演であった。
彼の出演作品の中でこの作品が一番良かった。

表題の「生かされて。」はルワンダ虐殺を生き抜いたある女性の記録である。
文章を読みながら「ホテル・ルワンダ」の映像がフラッシュバックする。

東京に暮らしていると分厚い日常が世界を覆ってことを忘れてしまう。
そして生きているという状態に対する感覚が鈍化していく。

長距離の移動の際、我々は特異な情報空間に身を置くことになる。
自分という視点の向こうからあらわれる情報によって意識は覚醒し、感覚が開かれていく。

この種の情報空間の形成は物理的な移動を必要とするのだろうか?

映像やテキストといったコンテンツによっても情報空間の形成は可能だと自分は考える。
おそらくコンテンツの力とは情報空間の形成力にある。

強力な情報空間において我々の感覚はディストーションされる。

良質なコンテンツはエンタングルの顕在化とでも呼ぶべき時間の感覚と空間の感覚の歪みをつくりだす。

こんな話がある。
夢というものには時間が存在していないのではないかというのだ。
例えば現実世界でバイクの走り去る音がしたとしよう。
あなたは眠っていて夢を観ている。

夢の中であなたは昨日たのまれた届け物を運ぶ為にバイクで疾走している。
さっき交差点で信号が変わったので少しイラついている。

バイクの音がしたのは今である。
では、あなたはバイクの音がするのをわかっていて、バイクに乗る夢を観ていたのだろうか?

そうではない。
バイクの音がしたことから逆算して夢がつくられているのである。

こうした情報空間のディストーション感覚を与えることができるコンテンツは情報の本質的な何かを含んでいるのだと自分は考える。

「生かされて。」も読んでいる間、現実世界の時間と空間の感覚が脳内のそれから乖離していくのを感じた。
本の内容については次のエントリーで述べてみたい。

消える前に読後直後にでてきた言葉を書きとめた。

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