日本には「ま、いっか」が足りない

発売前日だったがルパン三世の新作を視聴した。
面白い脚本ではあったがそぎ落とし過ぎでストーリーに骨太さが減ってしまっていた。伏線が説明不足のまま未消化であった。

さて、それはさておき写真は新作のイメージである。
こういうノリで地道に製作を進めている。

このエントリーのタイトルは帰り道に閃いたものである。
銀座のAppleストアでPresentationzenのGarr氏のプレゼンイベントがあった。イベント前にGarr氏と直接話す機会を得た。

Garr氏のプレゼンの後、聴衆が氏のもとに押し寄せ、グっと疲れたので早々に会場を後にした。

帰宅しようと思ったがどうにも街中から圧迫感を感じてしまいまいった。

これはなに?

そう思って夜の銀座をぶらりと帰路につきつつ、本屋をながめていて不意に気づいた。

ものすごく多くの書籍が人に対して「処理速度の向上」を強いているように見えた。更に、ポジティブな世界をおも強いていて、これをまともに読んだら強烈にストレスだなあ、と思った。

行儀よく、処理速度が速く、大胆で、金持ちで、優しくて、志があって、という言葉が様々な本のあちこちに散らばっている。凄まじい言葉のウェーブである。これをまともにくらったら洗脳どころではない。

人がそこに存在することに対する否定につながってしまう。
強烈に違和感を感じた。

そもそも人は怠惰でOKなはず。
気張って、命を削ってつくられた作品がその他の作品にくらべていいという事実はない。たまにそういうのがあるかもしれないが基本的に作品でもなんでもその本質のもっと奥にある核は「運」でしかない。

どれだけ精神パワーと実時間と能力とお金をかけても1000年後に残っているかどうかは「神のみぞ知る」、つまり「運」の要素がほとんどである。

焼けてしまったアレクサンドリアの図書館には聖書よりも遥かに面白い本があったのではないか?といまでも時々思う。

話がずれてしまった。
で、さっきコンビニにいった帰り道に更に閃いた。

(とここまでFlickrの中でエントリーを書いている)

メディアが脅迫によってストレスを強いるような情報を投げつけてくるのには理由がある。現代社会においてストレスは消費へとダイレクトにつながる。
人は消費行動によってストレスから発生したエネルギーを消化するのである。

なるほどよくできたシステムだな、と感心した。
人々が「あれ、実は怠惰でもよかったんじゃね?」と思い出したらシステムとしてはこれはマズいわけだ。

で、更に話は飛ぶが以前、カンボジアのトンレサップ湖にいったときのことだ。
湖までの道沿いに貧民層の人々が住居を構えている。
旅行者はここに浮いている彼らの小舟にのってトンレサップ湖に向かう。

僕らを案内してくれたのは異様にイケメンなカンボジアの青年だった。
彼はドロドロの泥水の中につかって船をだし、僕らを巨大な湖へと連れて行ってくれた。
彼は保険にも入っていなければ年金をもらうこともないだろう。
泥の中につかっている彼を見て僕はそう思った。

地球上のどれだけの人が保険やら年金を享受できるのだろう。
実は大多数の人々はそんなものとは無縁の生活を送っていて、何かあればあっさりと死んでいく。

生きるとはそういうものだ、という気もする。
そう考えるたら、だいたいのことは「ま、いっか」のノリでいけるよな、と思った。

本来はこっちの方が人の本性にあっているのではないだろうか。
モチロン、テキトーに生きろといってるわけではない。
そうではないが何でもかんでも「言われた通りに」やる必要はない。

ここが大事で、考えてベストをやれる場合、それが大変な仕事であっても、人は案外とストレスは感じない。ヤヴァイのは押し付けられたり、強要されることだ。

メシにしても雑誌に載ってるメシがウマいわけじゃない。
ウマいと感じることができる脳をつくって、ウマいと感じることができる脳の状態をつくることの方が重要だ。

味の大部分は脳がつくっている。
料理が持つ味の要素はトリガーであっても味の本体ではない。

ということをうつらうつらと考えながら昨夜は月島に帰ってきた。

以上、Flickrのフォームより投稿。

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