人の世界と人のお金

1472804900 C0E621D568
昨日の午後、ダイと電話で話した。
伊勢の夜に電話をもらっていたのだがその日は早々に眠っていた。

「よう。電話もらってたみたいだけれどどうした」

「うーん。違うんだけれど。ちょっときいてよ。ものすごくダメージをうける出来事があったんだよ」

「なんだサイフでも落としたか?」

「違うんだけどさ。あのさ。サイフを無くしたんだよね。」

「どっか忘れたのか?」

「うーん。あのね、授業にいくのに教室にカバンもっていってって友達に頼んでカバンもっていってもらったんだけど、その友達が5分くらい席を外したんだ。オレが教室にいってサイフとりだそうとしたら無くなってたんだよ。ショックだよ。この間、東京いったときにお兄ちゃんにサイフをカバンに入れっぱなしにするなって、言われたけどこのことかって思ったよ。」

「ン?教室でサイフ盗られたってこと?」

「そう。ショックだよ。」

「待てよ。教室で盗られたってことは学校のヤツ、クラスのヤツなんじゃないの?」

「そう。だからショックなんだよ」

「サイフには幾ら入ってたの?」

「パソコン買えるくらい」

「それはイタイな」

「でしょー。ずっと貯めてたのに。でもそれはまだ諦められるからいいとして、免許とかいろいろ入ってたんだよ」

「それでどうした」

「それで、クラスで話したんだよね。お金はもういいです。でも他のもの、大切なものが入っているのでサイフだけ返してください」

「そうか、でサイフはどうなった」

「放課後、友達が3人くらい、一緒に探してくれたんだよ。そしたら、オレの車の下にサイフがあったんだよ」

「ン?そこに落としたってこと?」

「ううん、違う。お金だけとってサイフはオレに返したってこと。それもさ、スゴイのはさ。1000円だけサイフに入ってたんだよね。ありえないよー。」

「え、それって1000円だけお情けで残したってこと?ということはやっぱりクラスのヤツだったということか。」

「そう。ショックだよ。2年も一緒にいて、そりゃオレのことを気に入らない人もいるかもしれないけど、気心しれてると思ったてたのに。それでね、次の日の朝に全体に話をしたんだよ。自分を気に入らない人もいるかもしれないけど、一緒に2年もやってきて。なんでそんなことをするのかわからないって。思わず父の血が騒ぎそうになったよ」

「そっか、それはまたタフだったな。でもさ、サイフ返ってきただけ良かったな。というか、スゴイ勉強だな。」

「うん。でもさー。また貯めないとなあ」

「そうだな。この間話した、プロジェクト進めよう」

みたいな話であった。
ダイは高専に通っている。
中学校のような環境ならまだわかる。
しかし、うちの田舎の高専といえばクラスもメンバーも固定された、狭い社会である。
そこでサイフが盗まれるというのは会社の机にサイフをおいておいて盗まれるようなものである。

ショックはでかかったことだろう。
人のお金を盗む。
これは犯罪である。
事件として成立させてもいい案件だが狭い社会でそれを行うことは必ずしもベストの回答ではない。
このケースの場合、犯人はある集団に限定されている。
ここが難しいところだ。

相手を特定することが必ずしもプラスに働くとは限らない。

ところで他者のお金を盗むとはいかなる心理状態なのであろうか。
何も感じないものなのだろうか。
しかし、そうであればダイのサイフは返却されることはなかったのではないか。

と考えるならば盗んだ相手は何を思ったのであろう。
ダイがどんなスピーチをしたのか僕はきいていないのだけれどそのスピーチに感じ入るものがあったのだろうか。

お金を盗む。
他者のサイフから公然と盗めば犯罪である。
クソみたいなサービスを提供し対価を得ているような店や人間は分類としては犯罪者ではないがやっていることは似たようなものだ。

プロセスに合意性が含まれているので「いまいちだった」とか「外れだった」ですまされているがこれは我々の暮らす社会が寛容だから許されているに過ぎない。「外れ」を提供することイコール「死」な社会であったならば緊張感はどれほどのものだろう。

ゆとりがあるから我々は無駄の存在を許容できる。
幸い日本では飲み屋はしょぼい料理を出しても殺されることはない。
ある程度の情報の最適化が効いているからである。
あらゆる店は価格・外観・意味・言葉・つながりなどの情報を常に発信しており、それらの情報によってフィルタが形成される。結果、その店にはその店の持つ本質を体現した人々が集う。

これが結晶化されるとブランドになる。

我々は常に情報を発信して生きている。
いや、生きるということが情報を発信することと同意なのだ。
あらゆる生命体は情報を発信している。
人の振る舞いは情報の振る舞いである。

情報はそれぞれが勝手に振る舞うとノイズな印象を与える。
しかし、時間の幅を視点に加えるとそれらはカオスではなくある種の秩序を形成していることに気づく。
よく観察するとカオスな振る舞いが秩序に転じる瞬間がある。
情報のダイナミズムが最大化するのはまさにその瞬間でそこではそれまでつながることがなかった情報同士がリンクしやすくなる。

ダイナミズム至上主義といったらいいのだろうか。
コンテンツであれ、人であれ、僕が一番重要視するのはこの感覚なのである。

この投稿へのコメント

コメントはありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です