天才は天才の研究をしない
さっき本屋で気づいた。
後の世に天才と呼ばれるようになる人々はやりたいことをやっているだけで決して「天才」を研究したりはしない。
同じように異様に強運な人々も「強運」の研究をしたりしない。
彼らに共通するのは「脳がドライブ」することに集中していることだ。
人の脳や能力は脳を研究することでは強化できない。
脳を強化するには「情報」を入力し、刺激を与えある種の「ドライブ状態」をつくりだすことで脳を物質的に変更させる必要がある。
脳自体の研究は補助線にはなり得ても、起点にはならない。
そして「ドライブ状態」をつくりだすために必要とされる「情報」は人によって異なる。
ではどのような情報が人の脳を「ドライブ」させる起点になりうるのだろうか?
「脳が悦ぶこと」
これが人の脳をドライブさせる主要因だと自分は考える。
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話は変わるがどこでもいい、人が集まっている場所にいって人々の話に耳を傾けてみて欲しい。
大多数の人は自分の周辺の出来事について話をしている。
例えば会社であれば会社の誰がどうで、自分はどう感じたというような話を延々と続けている。
何故か?
彼らにとってその話はかなり「面白い」のだ。
例えるならば自分が主人公の映画の脚本について延々と話をしているようなものである。
自分が主人公の台本なので言葉の端々がトリガーとなり、様々な情景が自分の脳内でリアルに現実感をともなって再現される。
これは本人にとってはとてつもなく面白い。
ところが彼らの話を聴いている自分には彼のもっている「現実感」が再現されない。
そのため、
「なんでこの人はどーでもいい話をずーっとしているのだろう」
となってしまう。
彼らの会話で発せられた「言葉」が持つ「言語的情報量」は誰にとっても同じだ。しかし、その言葉からリンクし派生していく情報が僕と彼らとでは根本的に違う。
そのため同じ言葉でもコンテクスト(文脈)を共有していない僕にとっては「つまらない話」となり、彼らにとっては「生々しくリアルな現実を伴う面白くてしかたがない話」になる。
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ここで先の天才は天才を研究しない、の話に戻ろう。
稀に天才的な人に会う。
この種の人々は先の例で取り上げたような「つまらない話」をほとんどしない。
「知り合いの誰がどうした」
という会話はほとんどでてこない。
彼らが会話で提示するテーマはそれが身近なものであっても常に「抽象的」だ。
例えば
「この間、電車でこんな人を観た。あの人はこういうことをしていたがそれをみて自分はこう感じた。そこには…」
といった具合に身近な話なのにそれが抽象概念を伴う事象や問題へとリンク展開されていきグイグイと引き込まれていく。話の上手な人の多くはメタファーや抽象概念への変換を使い、相手の脳内にあるイメージを話とリンクさせることで「リアル」をつくりだしていく。
人はそもそもが物質的にはそれぞれユニークな存在であり、その視点で観ればこの世界につまらない人はいない。
しかし、現実には話して面白い人は稀だ。
ほとんどの人はコンテクストの共有がない場合「つまらない人」である。
これは多くの人が個々人の脳内情景やコンテクストを言語という伝達手段によって「伝える」ことができないからである。
話をしている時に「リアリティ」を想起することができないから
「なんかつまらない話だな」
と感じてしまうのである。
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